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「いま元気」は「ずっと元気」とイコールではない。


ひさしぶりに職場に顔を出した。
自分の処方箋を出して、薬を受け取る。
「最近どう?」の問いかけに対して
「年明けに入院するんです」と答えた。
そしたら言われた。

「そんなに元気なのに、入院するの?」

悪意がないことは分かっている。
でも、わたしの心に深く刺さって抜けなくて
「あー、世間一般から見たら、わたしって平気そうに見えるんだなあ」
なんて、卑屈になっている自分がいる。

全てを理解してもらおう、なんて思っていない。
親であっても、きっと全てを理解できないし
できなくて当たり前だと思うから。
(だって、わたしはあなたじゃないから)
だけど
あと1ミリでも理解してもらえたら
今度はかける言葉が変わるかもしれない。
見方、見え方が変わるかもしれない。
だからちょっとだけ
わたしの闘病生活の一端を
ここに書きたいと思う。

「しんどい」と「元気」の波がある

朝、なんだか今日は調子がいいな、と思った日。
でもお昼を過ぎた頃には
何があったわけでもないのに急降下。
気持ちがずーんとなっている。
…なんてことは、日常茶飯事。
ひどい時には
しんどい波が十数分単位でやってきて
その波に振り回される。

もちろん良い時もあって…
朝からずーんとしていても
薬局で担当薬剤師さんと話していたり
訪看さんと話していたり
誰かと話す中で自然と元気になることもある。
人と話すことで得られる「元気」には
うまく説明できないけどチカラがあって
その「元気」は簡単にはなくならない。
しばらく持続してくれるからうれしい。

でもね、
“いま”元気だからって、それはあくまで“いま”がそうだというだけ。
それを全体として見ないでほしい。
波の大きさには大小あるけれど
しぬことしか考えられなくなる日や
布団から出られなくなる日
電車に乗るのがしんどい日
元気じゃない時もいっぱいあるから。
そして
その全てを人に見せているわけじゃないんだ、と知っていてほしい。

「対処行動」のおかげでもある

わたしには3つの対処行動がある。
ひとつは「リストカット」
ふたつめは「過食嘔吐」
そしてみっつめは「過量服薬」

リストカットは何度か書いているけど
わたしにとって付き合いの長い対処行動。
切ることで
しんどさや汚れた自分が血と一緒に流れ落ちてくれる
そんな気がしてカッターを握る。
血管を切った時の流れ続ける血を見ると
心がすーーっとなる。
縫合までが対処行動だから
麻酔が痛いのも、全然平気だ。
そして、切った日は過食嘔吐をしなくてすむことが多い。

過食嘔吐は
しんどいことやフラッシュバックなど心身に負荷がかかった時、心が限界になった時
自分の中の何かがプツンと切れてしまって
衝動的に買い物をして、ひたすら詰めてから、吐く。
食べるのも、吐くのも苦しいけど
どうしてもやめられずにきて
「明日こそはやめよう」の明日が毎日延びていく。

そして過量服薬は
本当に全てが限界になって
リストカットも過食嘔吐も効果がなくなった時
しんどい日を1日でもいいから無いことにしたくて
記憶をなくすために
たくさんの薬を水で流し込む。
過量服薬は最後の手段だ。

このみっつが
(別の記事にも書いたけれど)
いまのわたしの対処行動。
これらのおかげで日常生活がそれなりにまともに送れている、と言っても過言ではない。
「元気」に見えるいまがあるのは
これらの対処行動のおかげかもしれない、ということは知っていてほしい。

すべてをオープンにはしていない

元気じゃなくても
元気なフリをすることもある。
それは心配されないためだったり
心配がめんどくさく感じる時だったり
理由はいろいろあるけれど
病気をオープンにしているからって
その症状ひとつひとつをオープンにしているわけではない。

元気に見える=元気
ということではない、ということ
知っていてほしい。
その元気は、空元気かもしれないから。

最後に

どんな場面であっても
「元気なのに入院するの?」なんて
言ってはいけないと思う。
見えない疾患を抱える人もいるし
精神疾患には波があるものもある。
全てを理解することも
全てを見通すこともできないのだから
「元気なのに」という言葉は
ただ相手を傷つけるだけだ。

今回わたしはとても悲しかったし
元気に見えちゃいけないのかな、と不安にもなった。

でも
だからこそ伝えたいと思った。
悪意なく同じようなことを言う人が
ひとりでも減ってほしいから。
これを読んで1ミリでも認識が変われば
明日から
誰かにかける言葉も、変わるかもしれないから。

そうなってほしい、と願っている。





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