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早生まれのためにも授業は公文式が良さそうな気がする

アベプラ見て思ったことをつらつら書くだけの記事です。
ようつべの長文コメするやつだと思ってください。

今回見た動画↓

早生まれとは1月から3月ごろに生まれた子のことを指しますけど、直感的に早く生まれると言われると4月生まれを想像してしまうのは私だけでしょうか?
1月から3月に生まれた子は同じ学年の中では若い部類に所属します。
その結果、特に小学校では体や頭の成熟具合の差によってどうしようもないハンデを背負ってしまうことがあり、どうやら社会人になってからもそれを引きずってしまうみたいです。
動画内でひろゆきさんが勉強が出来ない子は次の留年させちゃえばいいという話をしていましたね。
確かにそれは一理あると思います。
ただ、個人的には千原ジュニアさんが言っていたように「国語は4年生、算数は5年生」と教科ごとに学ぶ内容を変えるという案がすごくいいように感じました。

そして、それを実現することを考えると主要4教科の勉強を公文式で指導してしまうのがいいような気がしてきました。
公文式というのは「くもんいくもん」のあれです。
私自身、くもんに通ったことはないのですが通っていた友人情報で

  • 教科の内容を説明する講義がない

  • プリントをレベルに合わせて進めていく

  • 出来たら先へ、出来なかったらもう一度

  • 分からなかったら質問をすることができる

こんな感じの塾だと聞いています。今回私が言っている公文式とは上の要素を満たす授業進行だと思ってください!(公文にわか)

本当に公文式で勉強を進められるのかという話がありますが、個人的にはそれはYesです。

そもそも、なんで小中高大と教室に集まって講義形式の一斉教授を行ってるかといえば、先生の数と生徒の数が合わないからですよね。
たまに離島とかで先生の数の方が生徒より多いなんてこともありますけど、大抵の学校は先生1人で30〜40人ほどの生徒を見ることになります。
確かにそんな人数だったら講義形式でないとダメな気がしますよね。
私も講義形式じゃないと大人数に知識を伝達するのは難しいし、やっぱり直接先生が教えないと内容が上手く伝わらないのかなと思っていたのですが、最近そうでもないのでは?と思うようになりました。

そう思うようになった発端は最近の参考書の充実ぶりです。
最近の参考書ってかなり種類が出ていますし、説明も凄くわかりやすい気がします。
完全に個人的な推測ですが、受験戦争の激化や、映像授業の浸透が関係していると思っています。
前者であれば、受験生をターゲットにした参考書が売れるから作られる。
後者であれば、有名講師が誕生し名前付きの参考書が売れるから作られる。
このようなロジックで市場に参考書が増えていって、競争が激しくなって良質なものが生み出されているのかなと思っています。

話が脱線気味になりましたが、参考書が充実している今もしかすると学校の先生が授業するよりも参考書を読んだ方が分かりやすい(特に理科社会の暗記教科は授業よりわかりやすい)のかもしれないと私は考えいて、だからこそ講義形式をやめて公文式の学習にしてしまうことも不可能ではないと考えているということです。

また、生徒からしてみれば「まだ理解してないのに先に進んでしまった」とか「こんなクソ簡単な内容やってらんない」という不満を抱える生徒はいなくなるでしょうし、かなりメリットがある気がします。

公文式で落ちこぼれてしまう生徒がいたらどうするんだ!という話ですが、おそらく自分のレベルに合わずに学習を進める今の方式の方が余程落ちこぼれが多いかと思います。
現代化のカリキュラムの頃(1970年くらいの例のあれ)、恐ろしい数の落ちこぼれが生まれたという話は有名ですし、自分のレベルに合った学習をした方が知識が定着するのは当然のことでしょう。
もちろん、そんな詰め込み式でもついていけている人はいて、そのような人が日本の発展に寄与してきたのでしょうから、国の発展とかのマクロな視点からすれば一部の天才・秀才を生み出すためにも一斉教授でガンガン授業を進めた方がいいのだと思いますが、まぁ……ね。みんなでハッピーになりたいッピ……

仮に公文式で学習を進めていくとすると、先生側もメリットがあると思います。
例えば、公文式だと生徒の成績をつけることが困難なので、そもそも成績は廃止され通知表を作る手間は大幅に減るでしょう。
また、公文式にすることで講義がなくなるので、授業準備をすることがなくなります。1時間の授業は準備に少なくとも1時間はかかるでしょうから授業準備がなくなることはかなりの負担減少です。
ただ、生徒の質問に答えないといけなく、先生たちの能力が問われてしまいますから、そこはある意味デメリットかもしれません。

じゃあ公文式にしたとして、体育とかどうするんだという話になると思います。
正直、私としては体育はどうしようもないと考えています。

身体の発育の差で理不尽に感じることもあるでしょうが、同じ発育くらいの人たちで体育をするなんてことはほぼ不可能です。
たまたま「今年度はやけに9月生まれが多いなぁ」のようなミラクルが起きない限り『同じ学校で』『理不尽が生じないくらい同程度の発育段階の生徒が』『体育の授業が行えるほどの人数集まる』なんてことはありません。
もしそんなことが可能だとすれば国民の祝日で『子作りの日』みたいなのを設けて出産日をコントロールするみたいなクソ不謹慎でクソ女性蔑視なものが生まれないとダメですし、そんなものが出来たとしても多くの人はそんなの気にせず子作りして、寧ろ『子作りの日』は子作りしない人たちが自虐気味にネタにしながらTwitterで呟く日のような扱いをするだけで何の解決にもならなそうです。

さて、脱線しましたけど体育においてはチーム競技などで生徒間での比較が避けられませんから、体育は本当にどうしようもないという最初の結論に戻ります。
体育に関しては『成績をつけない』とかの案があるかと思いますが、多くの生徒は体育の成績が悪く出たから嫌な思いをするのではなく、クラスの人より運動神経が悪いとかそっちの理由で嫌な思いをして、自己効力感を失っていく気がするので、成績をつけないのは根本的な対策にはならないと思います。

最後にまとめると

  • 主要科目は公文式で教えたほうが良さそう。

  • 公文式にしたら生徒はペースに合わせられるし、先生は仕事量を減らせる。

  • ただ、先生に求められる能力は上がる。

  • 体育は本当にどうしようもないと思う。

まあ公文式に通ったことないんですけどね()

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