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【聖霊を注がれた者達】240519礼拝メッセージ

「聖霊を注がれた者達」
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イントロ
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聖書は言います。
17:使徒言行録/ 02章 17節
『神は言われる。/終わりの日に/私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。/あなたがたの息子や娘は預言し/若者は幻を見、老人は夢を見る。

本日はペンテコステです。
教会の誕生日です。
この日から教会は生み出され、全世界に広がっていくことになりました。

ペンテコステの日以降、聖霊を注がれた人たちは何をしていったのか、3つのポイントで見ていきたいと思います。

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1、
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1つめのポイントは、聖霊の注ぎによって、力強く語る、ということです。

14:使徒言行録/ 02章 14節
そこで、ペトロが十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。私の言葉に耳を傾けてください。
15:使徒言行録/ 02章 15節
今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではありません。

聖霊がペトロ達に降った時、彼らは聖霊に満たされ、今まで話したことのない他国の言葉で話し出しました。
それを見に集まってきた人たちが、自分たちの母国語で使徒達が話しているのを聞いて、大いに戸惑いました。
「なぜこんなことが起こるのか、彼らはガリラヤ田舎出身で学が無い人たちではないか。
そんな彼らがそれぞれの外国語を喋っているなんてありえない」と。
多くの人たちはこの出来事があまりにも不可解であったため驚き、そして中にはこの現象をなんとか納得するために「いや、彼らはただ単にお酒に酔っているからだ」と罵る人も出てきたほどでした。

その批判に対して、ペトロと十一人の使徒が立ち上がって話し始めました。
「今は朝の9時です。だから私たちはお酒に酔っているのではありません」と。
当時ユダヤ人達は朝と夕方の1日2食で生活をしていました。
朝はパン中心の非常に簡素な食事であり、メインは夕食です。
お酒を飲むなら夕食でした。
朝の食事は職業によってかなり時間がズレていて、肉体労働者は早めの10時くらい、机に座っているラビ達は12時くらいに朝食をすませていました。
だからペトロが「今は朝の9時」というのは、まだ誰も食事をとっていない時刻であり、また、お酒などは飲まない朝食なのだから、あなた方が考えているように、私たちが酔っ払って外国語を喋っているのではない、と話し始めました。

14節の「話し始めた」と訳されている言葉は、
使徒言行録/ 02章 04節
すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。

の「霊が語らせる」と同じ言葉が使われています。
聖霊に満たされた人たちが、霊が語らせるままに話し出し外国語の言葉で話すこと、、、これは人間の意思の力だけで語ったものではありません。
聖霊の力によって語られたものです。
同じように、ペトロもここで多くの人たち、批判者に対して話し始めたのは、彼だけの意思の力ではなく、聖霊によって説教をし始めましたことを示しています。

ペトロと十一人の弟子達、、、彼らはもともとキリストを裏切った人たちでした。
キリストが捕まった時に見捨てた人たちです。
ペトロは途中までキリストについていきましたが、最終的には3度もキリストのことを知らないと言って裏切りました。
しかしそんなペトロ達がキリストのことを、人前で堂々と説教をし始めました。
しかも大勢の人がいる前で、中には罵るような人たちがいるような中で力強く話し始めました。
そこには、キリストを捕まえたローマ兵やユダヤ人律法学者達を恐れ、ビクビクして逃げ惑っていた彼らの姿はもうありません。
この変化こそまさに、聖霊の力が働いているからこそできたことです。

私たちも人前で聖書のこと、キリストのことを伝えるのはなんだかとても難しいような、勇気が出ないおっくうに感じることがあるのではないでしょうか。
私なんかに伝道なんてとてもできない、、と。
確かに私たちの力だけでは難しいでしょう。
恐れが生じてくるでしょう。

しかし聖霊は、裏切った弟子達をも用いて堂々と福音を語る力を与えて下さったように、私たちにもキリストのことを話す力を与えて下さるのです。

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2、
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2つ目のポイントは、聖霊の注ぎによって、預言をしていく、ということです。

ペトロは、自分たちが他国の言葉を話すことは、ヨエルの預言を通して言われていることであると人々に告げました。

16:使徒言行録/ 02章 16節
そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
17:使徒言行録/ 02章 17節
『神は言われる。/終わりの日に/私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。

これはヨエル書3章の引用をしています。
17節に「終わりの日」と書いてます。
終わりの日というと、この世界が終わってしまう日、再臨の日と思うかもしれませんが、元々の言葉は、「終わりの日々」と日が複数系になっているので、聖霊が注がれた日から続く日々のことを指しています。
それに対して20節には、主の大いなる輝かしい日が来る、の日というのは単数系です。
なので「主の大いなる輝かしい日」というのがキリストが来られる再臨の日のことを指しています。
つまり聖霊が地上に降ったペンテコステの日から、キリストが再び来られる日に至るまでの期間のことを、終わりの日と呼んでいるのです。
だから今の私たちは終わりの日に生きている者達であると。

この終わりの日に神は、「すべての肉なる者に我が霊を注ぐ」と言います。
旧約時代、特別な人だけしか神の霊を注がれませんでした。
モーセやサムエル、ダビデなど、神が選ばれた人だけに聖霊の注ぎがあり、その人たちを通して神の言葉を伝えていきました。
しかし今や、聖霊は全ての肉なる人に注がれると言います。
その全ての人というのは具体的に言うと、

17節 あなたがたの息子や娘は預言し/若者は幻を見、老人は夢を見る。
使徒言行録/ 02章 18節
その日、男女の奴隷にも/わが霊を注ぐ。/すると、彼らは預言する。

全ての人、、、それは性別を問わず、息子達も娘達も、また年齢の区別もなく、青年達も老人達も、そして身分や国籍のも問わず、男女の奴隷達もです。
彼らは幻を見、夢を見て、そして預言をしていく。
どれも聖霊が降った時に起こることです。

特に預言が2回出てきて預言を強調しています。
預言と聞くと、私たちは来年何が起こるか、という未来を予知することを想像するかもしれませんが、聖書の預言というのはそういう意味ではなく、神の言葉、聖書の言葉を預かり、それを人々に伝えていくこと、これが預言です。
神の言葉を預かって人々に伝えていく、、、これが聖霊を注がれた人ができることです。
これが今や、霊を注がれる人ならどの人でもできるようになるとペトロは言うのです。

では預言する神の言葉とは何を指すのでしょうか。
19:使徒言行録/ 02章 19節
上では、天に不思議な業を/下では、地にしるしを示す。/血と火と立ち上る煙が、それだ。
20:使徒言行録/ 02章 20節
主の大いなる輝かしい日が来る前に/太陽は闇に/月は血に変わる。

いつかキリストが来られる日・再臨の前に、天と地に不思議な徴がなされると。
その徴として、太陽は闇に、月は血に変わる、と言います。
今は明るく私たちを照らす太陽が暗闇になり、夜を照らす月が血のようになる、、、これが再臨の日の時に起こるこの世の天変地異のことです。
今の私たちには本当にそんなこと起きるのか?と思うようなことであっても、聖書ははっきりそうなると記します。
実はこの事はキリストご自身も、ご自分が再び来られる時に起こる徴として詳しく語っています。

ルカによる福音書/ 21章 25節
「そして、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂う中で、諸国の民は恐れおののく。
26:ルカによる福音書/ 21章 26節
人々は、これから世界に起こることを予感し、恐怖のあまり気を失うだろう。天の諸力(しょりょく)が揺り動かされるからである。
27:ルカによる福音書/ 21章 27節
その時、人の子が力と大いなる栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。

人の子イエス・キリストが力と大いなる栄光をもって雲に乗ってこの地上に来られる時、つまり再臨の時に、太陽や月、星に徴が現れると。
それが、太陽が急に闇に変わり、そして月が真っ赤な血に変わると。
その時地上では、どんなに権力があった人も、富を築いて力があったとしても、天変地異の前では恐れ慄きます。
その恐れは気を失うほどであると。
今までは、自分たちが科学の力や、富の力をもってこの世界を歩もうとも、支配しようとも、太陽や月に現れる異変をみて、天の力がどれだけのものか、自分たちの力がいかに小さく、はかないものかを思い知るからです。

このように聖書には、世の終わりの時にこれらの天変地異が起こることが預言されています。
私たちは心のどこかで、本当にこれらのことが起こるのか、、、いまいち信じられないように思うかもしれません。
しかし今まで聖書が旧約時代から預言してきたことは、確実に起こりました。
その最もたるものが、キリストがマリアを通してこの地上で生まれ、十字架への道を歩まれ復活されたことです。
それらは聖書であらかじめ預言され、そして成就しました。
今までの預言がことごとく成就してきたのであれば、これからの未来に対して記されている聖書の預言も、確かに起こることとして信頼することができるのではないでしょうか。

だからこの聖書に記されている預言を皆で伝えていく。
これは高度な知識や知恵が必要なわけではありません。
聖書に書かれている神の言葉をそのまま人々に知らせていくことです。

今までは選ばれた人しか預言することはできませんでした。
しかし今やキリストを信じる一人一人に聖霊が注がれ、聖書が示す世の終わりについて誰もが伝えていくことができるのです。

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3、
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では世の終わりについて恐ろしい天変地異が起こることが分かった時、私たちはどうしていけばよいのでしょうか。
3つめのポイントは、聖霊の注ぎによって、キリストの名を呼び求め救われる、ということです。

聖書は言います。
21:使徒言行録/ 02章 21節
しかし、主の名を呼び求める者は皆、救われる。

聖書の預言は、天変地異が起こる恐ろしい警告をすると同時に、救いの約束も書かれています。
それは、主の名を呼び求める者は皆、救われる、ということです。
キリストの名を呼び求める人は、皆救われる。
皆です。
そこには、ユダヤ人だけではなく、貴族だけでなく、奴隷も、若者も年寄りも、男性も女性も皆です。

なぜキリストの名を呼び求める者は皆救われるのか。
それはキリストが十字架にかかり、私たちの罪を全て負われたからです。
それによって信仰者は、神の最後の審判の時に有罪とならず、無罪となって裁かれることがなくなるからです。
これはただただ、キリストの名を呼び求め、あなたこそ、十字架で私の身代わりに全ての罪を背負って死に、そして復活して甦って下さった私の救い主であることを告白することです。
これによってキリストによる救いが信じる皆に与えられることが、約束されている。

この、キリストの名を呼び求めることは、聖霊によってなされることです。
なぜなら聖霊が、私たちの罪を気づかせ、このまま行くと私たちは滅んでしまうことを示してくれるからです。
そして罪を示すと同時に、私には救い主であるキリストが必要だ、と呼び求めることができるようになるのです。

約2000年前のペンテコステの日に聖霊が注がれたことによって、教会は聖書の預言を語り、キリストによる救いを勇気をもって伝え続けてきました。
たとえ迫害の中でも語り続けてきました。
そしてそれが徐々に徐々に広がっていき、今や日本にも福音が届いていきました。

私たちが今ここに集っていることができているのは、誰かが聖霊によって力付けられてキリストによる救いを伝えてくれたからです。
もしかしたら断られるかもしれない、冷たい反応になるかもしれない、受け流されるかもしれない、、、そのような恐れや葛藤がある中でも、誰かが私たちにキリストのことを話してくれた。
その中で私たちは聖霊の働きによって、イエスは主と告白して救われていきました。

この聖霊の働きは今も続いています。
キリストが再び来られる日まで、一人でも多くの「主の名を呼ぶ」キリスト者を生み出していくのが、聖霊を注がれた私たち教会の役目です。
この救いを生み出すために、神は、男性も女性も、老人も若者にも聖霊を注いで下さいました。

この聖霊の働きに導かれ、そして力を与えられながら、今度は私たちがキリストを伝え続けていく、、、これが主の名を呼び求めて救われた私たちキリスト者の生き方です。

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結語 共同体 神の語りかけ
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聖書は言います。
17:使徒言行録/ 02章 17節
『神は言われる。/終わりの日に/私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。/あなたがたの息子や娘は預言し/若者は幻を見、老人は夢を見る。

本日は聖霊の注ぎをテーマに3つのポイントで見てきました。
聖霊の注ぎによって、力強く語る
聖霊の注ぎによって、預言をしていく
聖霊の注ぎによって、主の名を呼び求め救われる、です。

今日も神はいいます。
「私の霊をあなたたちに今日も豊かに注ぐ。
それによってあなた達は大胆に聖書の言葉を預言をし、キリストによる救いを告げ知らせていきなさい」と。

だから私たち教会は、聖霊の助けをかりて、聖書の預言を告げ、そしてキリストの名を呼び救われる人を一人でも多く起こされるように、祈り、伝え続けていこうではありませんか。

祈ります。
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祈り
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主よ、あなたが預言されていた約束の聖霊をすべての弟子達一人一人に送ってくださいました。

わたしたちが今終わりの時代に生きている、、、それがどんなに重要なことか、あなたが再びこの地上に来られる日が近づいていることをわきまえ、どうぞ私たち一人一人が新たな思いをもってキリストの名を呼び求める人が一人でも多く起こせるように、私たち教会に力を与えて下さい。

イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。

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