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230409礼拝メッセージ【復活とは何か】

https://youtu.be/6nue6p90EWc

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・イントロ 恐ろしいとは何か?何に恐れを感じているか
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続いてメッセージをします。
今日の説教題は「恐ろしかった復活」です。


ある年配の方がこんなことを言ってました。
自分が老人になり話題になるのが、どうやって自分たち老人が楽しく生きるか、という話ばかりが中心になることである、と。
ゲートボールしてみたり、どこかの公民館に集まってみたり、どうしたら人生を楽しめるかを色々と考える。
でもその人は言います。
その根本は死を恐れているからではないか。
今楽しいことをする。
それもいい。
でもそれは実は、死に対して恐れていて、その死を忘れようと必死で楽しいことをして生きようとしているのではないか、と。

私はこの話を聞いて思うのです。
これは年配の方だけの話だろうか。
どの年代の人にも当てはまることではないだろうか、と。
多くの人が人生を楽しもうとする。
それは単に遊ぶだけでなく、仕事で業績をあげたり、学校で成績を取ろうとしたりする。
今巷では、自分が大好きなことをして飯を食べていく、などの本がたくさんあります。
好きなことをして働いてお金をもらう。
確かにそれは良いことです。
私たちは一生懸命働いて生活をする。

でもその根本にあるのは、ほとんどの人は、実は死を考えないようにしているから、死を恐れているから、そこから忘れるように今日も必死で生きようとしているのではないかと思うのです。

しかし私たちキリスト者たちは、自分たちが恐れる死をも打ち破られた、神の、キリストを復活された力によって今日も生かされている。
それを私たちは復活された日曜の礼拝を通して、恐ろしい死から勝利されたことを知るのです。

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再話
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聖書は言います。
1:マルコによる福音書/ 16章 01節
安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
2:マルコによる福音書/ 16章 02節
そして、週の初めの日、朝ごく早く、日の出とともに墓に行った。

マリア達はイエス・キリストのご遺体に油を塗る為に朝早く墓に行きました。
それは油を塗ることで少しでもキリストのご遺体が腐るのを防ぐ為です。
金曜日にキリストが十字架にかかりそこで死なれ、そのまま墓に葬られました。
それから安息日になってしまったので、安息日では基本働いてはなりません。
だから週の初めに、しかも朝早く、自分たちが動けるようになってから、愛するキリストのところにいき、せめてものことをしようと彼女達は墓に向かったのです。
キリストに油を塗ること、、、それは、生きているキリストにはもう会うことはできない、でも体はそこにある、その体をもう一度見たい、油を塗って愛するキリストの体に触れたい、そういう思いが彼女達から溢れ出て、いてもたってもいられずに墓に向かったと思うのです。
私たちも、愛する人が亡くなられた時、確かにそこにはもう生きているわけではないけど、今一度その人の亡骸を見ておきたい、触れておきたい、そういう思いにもなると思うのです。
愛する人を見届けたい、、、そのような思いでマリア達は週の初め朝早くに墓に向かいました。

しかし向かう途中彼女達は気づきます。
3:マルコによる福音書/ 16章 03節
「誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」

思いが溢れて、とりあえずキリストが葬られている墓に向かったのはいいけど、でも大きな問題があることに彼女達は気づいたのです。
墓の入り口にある大きな石です。
当時のお墓の入り口には大きな大きな石があり、それを動かすことによって出入りできるのです。
この大きな石は基本的には大人の男性数人で動かすほどの重いものです。
だから女性達だけではどうしようもない。
マリア達はそのような話をしているうちにお墓につきました。
すると、、、

4:マルコによる福音書/ 16章 04節
ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石がすでに転がしてあった。

なぜか大きな石がすでに転がっていました。
すでに、それは彼女達ではなく、また彼女達が誰かがちょうど石が動いているところを目撃したのでもなく、誰かが、そして彼女達が墓に到着する前に、すでにキリストが葬られているお墓の入り口にある大きな大きな石を転がしていたのです。

おそらく彼女達はその光景に不思議に、そして疑問に思いながらも、お墓に入ったことでしょう。
すると、、、

マルコによる福音書/ 16章 05節
墓の中に入ると、白い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、女たちはひどく驚いた。
お墓の中に白い衣を着た若者が座っていたのです。
だから彼女達はひどく驚きました。
非常にびっくりしたのです。
まさかお墓に自分たちより先にいるとは思ってもいなかったからです。
その若者は言います。

マルコによる福音書/ 16章 06節
「驚くことはない。十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
7:マルコによる福音書/ 16章 07節
さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』」

若者はマリア達に、ここにキリストはいないことを伝えます。
お納めした場所、それはキリストが十字架で死なれ、そのご遺体を納めた場所であり、他の人の墓ではないことを示しています。
確かに三日前にはこの場所にキリストのご遺体があった。
しかし今、キリストはここにはおられない。
なぜならあの方は復活されたからだ、と。
そして以前から言われている通り、キリストは甦られ弟子達より先にガリラヤに行っている。
そこで復活されたキリストとあなた達は出会うだろう、そのように若者はマリア達に言うのです。

それを聞いた後彼女達は、
8:マルコによる福音書/ 16章 08節
彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

マリアたちは墓から逃げ去りました。
正気を失うほどに震え上がったのです。
恐ろしかったからです。
そしてこのことを誰にも言いませんでした。
マリア達は気が動転してしばらくの間は何も言えなかったのだと思います。
しかし、やがて時間がたち、気が落ち着いた時、全てのことを弟子達に伝えていき、キリストが復活されたことが広まっていったのです。

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疑問 ・福音書なのに恐ろしいで終わるって変じゃない?
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この箇所を見ますと、8節の後からは結び1となっています。
これは続きが書かれた原文もありますが、権威ある写本では8節までとなっているので、分けるためにこのように書いてあるのです。
なのでマルコによる福音書は8節で終わる原文もあるということです。

そのマルコによる福音書の最後の、結論の部分は何か。
それは「恐ろしかった」。
最後の言葉は恐ろしかったで終わっているのです。
でも不思議じゃないですか。
マルコによる福音書の福音とは良い知らせ、という意味です。
良い知らせ。
だから良い知らせを聞いたら普通は喜ぶのです。
嬉しいはずです。
しかしその福音書の一番最後の言葉が「恐ろしかった」という言葉で終わっている。

この箇所はイエス・キリストの復活の話です。
白い衣の若者は言うのです。
あの方は復活なさって、ここにはおられない。
キリストが復活された。
彼女達は墓に行った時、そこが空っぽであり、それはキリストが甦ったことを意味していたことを知ったのです。
でもそこで彼女達は体が震え、正気を失っていた、と書かれている。

普通、キリストが甦ったことを聞いたら、そこで嬉しくて、喜び、飛び跳ねて、そして彼女達は弟子達にも、そして色々な人にも伝えていった、そうやってこの箇所を書くものではないでしょうか。
福音、良い知らせがある。
死からキリストが甦られた、復活された。
人間にとって一番の敵であり、どうしても避けて通れない死を、キリストが打ち勝って下さった。
それなら喜ぶ様子が書かれていてもいいじゃないかと思うのです。

しかし聖書は言います。
マルコによる福音書/ 16章 08節
彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

彼女達は嬉しさより恐ろしくてたまらなかったのです。
しかしその事実に突きつけられた。
だから彼女達はブルブル震えながらも、その復活の事実を受け取り、新しい力を得て立ち上がっていった。

人が甦る、復活する。
それがいかに厳粛なことかと思います。
人が死ぬことも、その死に立ち会うことも厳粛なことです。
でも人が甦る。
それは嬉しいことであると同時に恐ろしいことでもあると思うのです。
大丈夫か、こんなことが起こって、、、と思う。
だから私たちはキリストの復活を受け止める時、そこには喜びと同時に、ここには本当の命の厳しさ、本当の恐ろしさが同時にあると思うのです。

6節の
あの方は復活なさって、
の復活なさっては、元々の言葉を見ると受け身です。
復活させれた。
キリストは自分で復活したのではない、復活させられたのです。
それはキリストが一人芝居で十字架にかけられ、死んで自ら復活したのではないのです。
そこには神によってキリストは復活させられた。
神の手が加えられたのです。

マリアたちは墓場にいって、死体を見ても正気を失うほど恐ろしいとは思わなかったことでしょう。
でも死体が無くなることによって、ここでは神が働かれた、そのことを彼女達は感じざるを得なかった。
自分たち人間の手では到底できるはずのない神の力がここでは働いておられる。
だから彼女達は正気を失うほど恐ろしく感じたのです。

私たちが暮らしている毎日の生活で、ある時、これは誰がどうしたらこうなったか分からない、そしてよく考えてみると、神がなさったとしか考えられない、ということが起こったら私たちは恐ろしくなるのだと思うのです。
驚いてその場を逃げ去っていくくらいに。肝を潰すのだと思うのです。
実際マリア達はこの墓にい続けることはできませんでした。

そう、復活は恐ろしい。
なぜならそこに私たちの力では到底及ばない神の力が働かれるから。

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恐ろしい体験
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私は神学校に入る前も、入ってからも幸いなことに、個人伝道をする機会が何回かありました。
特に思い出すのは最初の時、初めて小学生の男の子に個人伝道をした時のことです。
なにしろ初めてのことなので、どきどきしながら、一生懸命神について、人間について、罪について、そしてキリストの救いについて伝えました。
すると彼は、イエス・キリストを自分の救い主として信じる、そう告白したのです。
一人の人を救いに導けたこと、それに立ち会えたことは、今までの様々な人が支え、祈りが積み重なったからだと思います。
確かにそこには嬉しさがありました。

でもその時のことを注意深く振り返ると、彼の信仰告白を聞いた時、私はゾクっと恐ろしさを感じた覚えがありました。
なぜか?
そこに神が働いておられると感じたからです。
一人の尊い命が救われること、それは古い自分がキリストと共に十字架にかかり、そしてキリストと共に復活させられた。
それは神による働きがあるからこそ信仰告白できたことです。
そこには非常に厳粛な、厳かな働きを見るわけです。
彼が信仰告白をした、確かにそこには人の積まれたわざはあるかもしれない。
しかし何より人智を超えた神の力がそこに働かれた。
その中でイエスは主と告白することができたのです。

でもこれはこの人だけの話ではありません。
イエス・キリストを救い主として受け入れた私たち教会にも同じ神の、この恐ろしい神のわざが私たちのうちに起こって、その力によって私たちは今日も生かされている。
神から離れ、罪人であった私たちがすでに救われているのは、何よりこの復活の朝に起こった、マリア達が震え上がり、正気を失うほどの恐ろしい神の力が私たちのうちにも起こっているからこそ、私たちは罪から救われ、今日も生かされているのです。

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結語
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聖書は言います。
8:マルコによる福音書/ 16章 08節
彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

彼女達はキリストのご遺体に油を塗るために、朝早く墓に向かいました。
しかしそこにキリストのご遺体はなかった。
なぜならキリストは神によって甦えらされ、復活されたからです。
それが日曜の朝に起こったのです。
だから私たち教会は日曜に礼拝をしている。

復活はまさに神が働かれたところから始まっているのです。
だから本当に恐ろしい。
人間の力ではない、死の力でもない、神の力が働いておられるから。
そしてこの恐ろしい神の力は、私たちを復活させて下さる力。

信仰によって死を恐れない、そういう人は素晴らしいと思います。
でも私は、ある意味死は恐れてもいいとも思う。
なぜなら初めて体験することだから。
死を恐れてもいい。
でもそれと同時に、死より、神の方が恐ろしい。
なぜなら私たちが恐れる死をも打ち勝つ力を神は持っておられるから。
だから神は死よりも恐ろしい。
しかしその神の恐ろしい力は、私たちを復活へと導く。

神は今日も私たちに言われるのです。
「あなた達が恐れている死に打ち勝つ力をもって私はキリストを甦らせたように、あなた達も甦えらせ、命を与えている。
この死よりも恐ろしい復活の力によって、あなたたちは今日も力強く生きよ」
そう言われるのです。

だから私たち教会は、この死に打ち勝つ神の復活の力によって、今日も生かされ、キリストが復活された日曜に神に恐れをもって礼拝を捧げていこうではありませんか。

祈ります。

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祈り
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天のお父様、私たちがいつも日曜にあなたに礼拝を捧げるのは、あなたがキリストを復活させて下さったことを受けとめるためです。
キリストを死から甦られたあなたの力は、本来恐ろしいものです。
私たちでは到底及ぶことのできない力だからです。
しかし、その恐ろしい力によってキリスト者達はみな、この甦りの力によってすでに生かされていることを今一度改めて受け止め、力強く歩んでいくことができますように導き続けて下さい。
イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。


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