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230423礼拝メッセージ【福音とは何か】

https://youtu.be/KKAeI2cPDb8


ルカによる福音書/ 01章 19節

天使は答えた。「私はガブリエル、神の前に立つ者。あなたに語りかけ、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。


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喜ばしい知らせってそもそも何?
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今日の説教題は「神が語られる喜ばしい知らせ」です。
喜ばしい知らせ。

皆さんにとって喜ばしい知らせ、良い知らせとは何でしょうか。
例えば、仕事で相手先から提案していた契約の了承した返事を聞くことができた、とか自分が関わっているプロジェクトの成功の知らせをきくことができた、とか、祈っていた相手の病が癒された事を聞いた、など自分の願いや期待にかなった知らせが届くとが喜ばしい知らせになると思うのです。
私が小学生の時、友達に熱心な阪神タイガーズファンの方がいました。
彼は自分の応援している阪神が勝った、という結果を聞くと何より嬉しがる。
逆に負けると大いに気分が落ち込む。
その人にとって、チームが勝ったという知らせは喜びの知らせなのです。

では聖書のいう、喜ばしい知らせとは何を意味しているのでしょうか。
19節にある、「喜ばしい知らせ」の元々の言葉は「福音」を意味する言葉からきています。
福音。
福音とは良い知らせ、喜ばしい知らせである。
では聖書の福音とは、どういう意味で喜ばしいのでしょうか。
聖書辞典などで調べるとこのように書いてありました。
「福音とは、罪の赦しと、イエス・キリストを通して神の子としての身分に与る救いのことである」
聖書の語る喜びとは何か。
それはイエス・キリストによって私たち人間が罪赦され、神の子となること。
それが喜びである。

今日の聖書箇所で言うと、
ルカによる福音書/ 01章 16節
イスラエルの多くの子らをその神である主に立ち帰らせる。
ことです。

多くの人々を神に立ち帰らせること、それによって神の子となることです。
立ち返る、ということは離れていた状態であった。
元々私たち人間は神によって造られ、共にいたにも関わらず、神から離れていった。
この神から離れる事、それを罪といいます。
そしてそのまま神から離れ、滅んでいく存在でありました。
しかしイエス・キリストを通して、神から離れていた私たちが、再び神に立ち返る、その道をキリストが用意され、キリストを通して私たちが再び神に立ち帰り、神の子となる。
その備えができた。
これが何よりも聖書のいう喜びの知らせなんです。
この喜ばしい知らせを伝えるために、今日も神は聖書を通して、語り続けてくださっているのです。

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あなたって誰?ザカリア 喜ばしい知らせを伝えられた人は誰?
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 01章 19節
天使は答えた。「私はガブリエル、神の前に立つ者。あなたに語りかけ、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。

ガブリエルが喜びの知らせを伝えた「あなた」って誰のことでしょうか。
それはザカリアです。
ザカリアは祭司でした。
聖書は言います。

4:ルカによる福音書/ 01章 05節
ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアと言う人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトと言った。
5:ルカによる福音書/ 01章 06節
二人とも神の前に正しい人で、主の戒めと定めとを、みな落ち度なく守って生活していた。

ザカリアの妻エリサベトは、アロン家の娘の一人でした。
この意味はエリサベトは正統な由緒正しい出身の人であり、当時結婚において家系を重んじた社会では、この夫婦はエリート的な存在でした。
さらに二人とも神の前で正しい人でありました。
家系も、信仰生活においても正しい二人。
そうであれば、その生活も順調そうに見えます。
しかしです。

ルカによる福音書/ 01章 07節
しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには子がなく、二人ともすでに年を取っていた。

彼らには子どもがいませんでした。
当時の文化では、たくさんの子どもをもち、特に男子を持つことは神からの祝福のしるしと考えられていた時代です。
逆にいえば、子孫がいないというのは不幸なことであり、それは神からの呪い、神からの罰ではないかと思われていた、そういう時代であったのです。
おそらくザカリアは、自分たちは神の前で正しく歩んでいる、しかし目に見える祝福である子どもが一向に与えられない、、、そしてそのまま年老いてしまった、、、なぜ神は私たちを祝福してくれないのだろうか、、、なぜ私たちの切なる祈りに答えてくれないのだろうか、、、
きっとそのような葛藤があったかもしれません。

私たちもまた人生の営みの中で、曲がりなりにもきちんと生活をしている中であっても、目に見える神の祝福が祈っても祈っても一向に与えられず、なぜ神は自分の切なる祈りに答えてくださらないのであろうか、祝福を与えて下さらないのか、、、そう嘆くようなことがあると思うのです。
そのような痛みの中にザカリアもいた。
しかしそのような中で、神の喜ばしい知らせは突然やってくるのです。

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いつ、どこで喜ばしい知らせを伝えられたの? 大事な時
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ザカリアが喜ばしい知らせを聞いたのは、彼が自分の務め、仕事をしている時でした。

7:ルカによる福音書/ 01章 08節
さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の前で祭司の務めをしていたとき、
8:ルカによる福音書/ 01章 09節
祭司職の慣例に従ってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。

主の聖所に入って香をたくこと、これは祭司にとって一生に一度あるかないかの大変名誉ある重要な務めでした。
そのような大事な場面で儀式を行うことになったのです。
きっとザカリアは緊張していたと思います。
儀式が滞りなく進むように、神経を張り巡らし一つ一つのことを丁寧に行っていく。
しかも自分が儀式をしている間、大勢の人たちが外で祈って待っているのです。
そんな一生に一度あるかないかの、特別な聖所で、大勢の人が集まる場所で初めて儀式を行うのです。
そんな緊張感あるなか、事態は急にかわります。

10:ルカによる福音書/ 01章 11節
すると、主の天使が現れ、香をたく祭壇の右に立った。
11:ルカによる福音書/ 01章 12節
ザカリアはこれを見てうろたえ、恐怖に襲われた。

ザカリアが大事な大事な務めをしている時、急に神の使いが現れたのです。
一世一代の大舞台で緊張しながらことを進めている時に、一番嫌なことは、イレギュラーが起こることです。
大事な時に予想をしないことが起きる。

しかも予想しない事態とは神の使いが現れたということ。
置いてあるものの場所が多少違った、とかではその程度のことではありません。
神の使いが現れるという全く想定外のことがザカリアに起こったのです。
なのでザカリアは狼狽えました。
それと同時に彼は恐怖に襲われたのです。
それは、きよい神の前で儀式をしようとした時に、実際にその厳かな神の臨在を感じさせる、天の使いが自分の目の前に急に現れたからです。

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なぜ喜ばしいのか 祈りに応えられたから?主に立ち返らせるため整えられた民を主のために備えるため それは個人的であり、さらに人類のためでもある
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そんなザカリアに天使は言います。
12:ルカによる福音書/ 01章 13節
天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの祈りは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。
13:ルカによる福音書/ 01章 14節
その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。
14:ルカによる福音書/ 01章 15節
彼は主の前に偉大な人になり、ぶどう酒も麦の酒も飲まず、すでに母の胎にいるときから聖霊に満たされ、
15:ルカによる福音書/ 01章 16節
イスラエルの多くの子らをその神である主に立ち帰らせる。
16:ルカによる福音書/ 01章 17節
彼は、エリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の思いを抱かせ、整えられた民を主のために備える。」

ここで天使はザカリアに二つのことを言います。
1つ目は子どもがいなかった年老いたザカリア、あなたに子どもが与えられること。
そして二つ目はその子どもは特別な使命を持っていることです。

ではその使命とは何か。
それはザカリアの間で生まれてくるヨハネは、神の子イエス・キリストが来られる前に、イスラエルの多くの子たちを神に立ち帰らせる役目が与えられていることです。
神に逆らって離れている人たちに、正しい思いを抱かせ、イエス・キリストが来られるための備えをすること。
それは、今まで子どもが与えられて来なかったザカリアにとって、単にその祈りが聞かれて子どもが与えられたという喜びだけではないのです。
何より、多くの人を神に立ち帰らせる備えをする使命をもった子があなた達夫婦に与えられること、だから喜ばしい知らせなのです。

神の使い、ガブリエルがザカリアに伝える喜びの知らせ。
それは何より神に立ち帰らせる備えをするから喜びであると。

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どのように喜ばしい知らせを受け取ったのか 信じられなかった そして沈黙をされた
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ではこの喜びの知らせを聞いてザカリアはどのような反応をしたでしょうか。
子どもが与えられるのだから、彼は喜び飛び跳ねたでしょうか。
しかしザカリアは天使に言いました。

17:ルカによる福音書/ 01章 18節
そこで、ザカリアは天使に言った。「どうして、それが分かるでしょう。私は老人ですし、妻も年を取っています。」

ザカリアは天使が伝えた喜ばしい知らせを受け止められませんでした。
自分たち人間の現実を見て、歳をおいているにも関わらずどうやって子どもができるだろうか、その自分たちの現実にを見て、神の喜ばしい知らせを受けとめることができなかったのです。

ザカリアは祭司です。
神のことをよく知っていたはずです。
聖書のことも精通していたでしょう。
だから旧約聖書に書かれていた、例えばアブラムとサラの話しのように、年老いても神によって子どもを授かった話を彼は十分に知っていて、信じていたはずです。
神は年老いた人間にも子どもを与えることができる、と。
でもそのことがいざ自分の身に起こるとなると、受け取れない、信じられない。
なぜならあまりにも大きな喜びだからです。
子どもが与えられ、しかも、民達を神に立ち帰らせる備えをする子を自分が授かる、そんな喜ばしいことが自分の身に起こる?と疑ってしまう。

私たちはああなったらいいな、とかこうなったらいいな、と願いが適う知らせを聞くと喜びます。
自分の想像する範囲で叶うのなら喜べる。
でも自分の想像をはるかに超える喜びの知らせ、それを聞いたら、人は逆に疑うのではないだろうか。
大き過ぎる喜びの知らせはむしろすぐに信じることができない。
そう、喜びの知らせ福音は、あまりの大きな喜びであるが故に、人は疑い、信じることができないのです。

私は今回の説教を備えながらふと思わされたのです。
私たちが周りの人たちに伝道をしようとしてもなかなか人に届かないことがあります。
様々な要因はあるでしょう。
でも大きな理由の一つとして、それは、聖書の伝える福音、喜びの知らせがあまりにも人間にとって大きな喜びだから、すぐには信じられないのではないかと。

私たちも福音を聞いた時、聞いてすぐに受けとめて信じれたか、、、おそらく私を含めて多くの人は聞いてすぐに信じたわけではないと思うのです。
イエス・キリストの十字架と復活を信じ、キリストが私の主であると告白すること。
そのことだけで自分の罪が赦され、神の子となる。
そんな、ただ信じることで本当にこの自分が救われるのは都合が良すぎるのじゃないか、、、そうやって、神が私たちに与えてくださった良い知らせ福音をすぐには受け止めることができなかったのではないかとも思うのです。

私は小学生の時から教会に行ってましたが、信じたのは20歳の時です。
それまでずっと福音を聞いていました。
でもていのいいことを言って、結局十数年と福音を受け止められず、信じられなかった。
普通自分の罪が赦されるのは、罪に対する代価を自分がし払わなけなければいけないと思うから。
しかし、自分が償うべき罪をキリストが代わりに十字架で全て負って下さった、そのことをただ信じるだけで自分の罪が赦されるなんてあまりに都合が良いいんではないかと思ってしまう。
だからなかなか信じることができませんでした。

聖書は言います。
「あなたに語りかけ、この喜ばしい知らせを伝える」
祭司であるザカリアは天使が告げた喜ばしい知らせをすぐには信じることができませんでした。

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ザカリアの対処
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そんなザカリアに対して天使ガブリエルはこう言います。
ルカによる福音書/ 01章 20節
あなたは口が利けなくなり、このことの起こる日まで話すことができなくなる。
時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである。」

ザカリアは良い知らせを信じることができず、それゆえに話すことができなくなりました。
沈黙を強いられてしまったのです。

私は今までこの箇所を読む度に、「神様、ちょっとやりすぎじゃないか」という思いをしていました。
神からの喜ばしい知らせを素直に信じることができなかった、それは確かに人間の問題だろう。
でもだからといって、何も話せなくさせるのは厳しすぎるんじゃないか、とも思うのです。
なぜ神はザカリアにここまでのことをさせるのだろうか。

でもある人がこの箇所についてこのように言っていました。
「ザカリアが話せなくなることは単なる裁きではない。
この沈黙は、神の言葉が本当に実現することを受けとめさせるために神が用意された期間である」と。

ザカリアはヨハネが生まれる時までの間話せなくなりました。
でもその間、自分の言葉が封じられることで、きっと彼は自分に告げられた神の言葉を何回も何回も思い出していたのではないだろうか。
その中で、最初は信じられなくても、自分に告げられた神の言葉を何回も繰り返していくうちに、そして段々と自分の妻のお腹が大きくなっていくのをみて、神が告げられた喜ばしい知らせが本当に自分たちの中で実現してく事を彼は目の当たりにしていって、信じられるようになっていったのではないかと思うのです。
沈黙は裁きではない、神の言葉が本当になるということを受けとめる時であった。

実際、ザカリアがやっと口がきけるようになって、彼が最初に言った言葉は何でしょうか。
彼は沈黙を罰と捉えて「ずっと私の口を塞いで、なんてひどい神だ」と呪ったでしょうか。
いや。
ルカによる福音書/ 01章 64節
すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。

ザカリアが沈黙のあと、最初にしたことは、神を褒め称えたのです。
「主は褒め称えられるべきお方。私に告げられた喜ばしい知らせが本当になったから」そうやって賛美をしたのです。
最初は疑っていても、でも沈黙を通して神の言葉を信じ、受けとめられるようになっていった。
そして神を賛美する者へと変わっていく。
そう、喜ばしい知らせ、福音は、沈黙を通して受けとめられるようになっていく。

私たちも、良い知らせ、福音を聞いた時、最初はなかなか信じられなかったかもしれません。
でもどこかで沈黙を通して、神の言葉に触れていったのではないでしょうか。
忙しい日々を過ごす中で、大きな問題にぶつかりどうしようもなくなったり、また、周りの人の死を目の当たりにした時、一体自分はこれからどこへ向かっていくのだろうか、自分の命はなんのためにあるのだろうか、生きるって何か、死んだらどうなるんだろうか、、、そのような事を考える静かな時間、沈黙の時間をもつ。
慌ただしく過ごしていた活動を一旦ふと止めて、自分の人生について考える時間があった。
その時に聖書の言葉が迫ってくるんです。
そこでキリストが歩み寄って下さる。
「私はあなたの全ての罪を負って十字架にかかった。これによってあなたは神に立ち帰り、あなたは永遠に神の子となる。」
そのようにして私たちは喜ばしい知らせ、福音を信じていったと思うのです。
そしてやがて神を、キリストを賛美していく。
だから私たちは毎週礼拝にて喜びの歌を、賛美を神に捧げる教会へとなっていく。

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・結語
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聖書は言います。
「私はガブリエル、神の前に立つ者。あなたに語りかけ、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。」

誠実な歩みをしていましたが問題を抱えていたザカリアに、突然神の知らせが伝えられました。
その知らせは、喜ばしい知らせ、福音でした。
でもその喜びの知らせをザカリアはすぐには信じることはできず、天の使いは、そんなザカリアに話すことを一時禁じました。
沈黙を与えたのです。
でもそれは単なる裁きではありません。
神はザカリアに沈黙を通して、ご自身の喜ばしい知らせ、福音を受けとめるようにされたのです。

今日の私たちの周りには実に多くの知らせが満ちています。
テレビやSNS、また会社や学校、家族。そして自分自身から絶えず多くの言葉、知らせが語られる。
これらの知らせは、時に私たちに良いものをもたらせてくれることもあります。
でも本当の意味で私たちに救いを与えるものではありません。
むしろこれらの知らせは、私たちの存在を傷つけ、滅ぼそうともします。
◯◯ができればあなたは幸せになれる、こういった知らせは、逆にいえばそれができなければあなたは幸せになれない、それができないならあなたには価値がない、そのように暗に伝えるからです。
しかし神は、聖書を通して喜ばしい知らせを今日も語られる。
御子キリストを十字架にかけるほどにあなたを愛す、と。

この喜ばしい知らせを受けとめるために、私たちは今一度沈黙しようではありませんか。
騒がしい知らせが周りにたくさんある中で、手を休め、活動を止め、何より心沈め共に神の言葉を聞き礼拝するのです。

今日はこれから新年度始まって最初の聖餐式があります。
キリストが十字架で流された血として葡萄液を飲み、引き裂かれた体としてパンを共に頂く。
キリストが十字架にかけられたのは、私たちが神に立ち帰るためにされたこと。
このことを沈黙をもって今一度思い起こし、神の喜ばしい知らせが、本当に自分の身に起こったこととして受けとめ、感謝し賛美していこうではありませんか。

祈ります。

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祈り
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天のお父様、今日もあなたは私たちに喜ばしい知らせを告げ知らせて下さいます。
私たちは簡単に、この世の中の知らせに耳を傾け、それを信じて、自分の存在価値を浮き沈みさせているものです。
でも私たちを本当の意味で救い、立たせ、勇気づけるのはあなたの福音、良い知らせです。
どうぞあなたの良い知らせを沈黙をもって受けとめていくことができる教会でありますように。
イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。


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