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【嵐の中で見出す信仰】240602礼拝メッセージ

「嵐の中で見出す信仰」
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イントロ
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聖書は言います。
Luke 8:25  
イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」

今日のテーマは信仰者です。
信仰者。

皆さんはジェットコースターが好きでしょうか。
実は私はジェットコースターが大の苦手です。
特にジェットコースターの急にフワっと落ちていくあの感じがダメです。
かたやうちの妻はジェットコースターが大好きで、こちらに引っ越して来て初めてナガシマスパーランドの横の高速道路を通った時、「あそこに行きたい」と言いましたが断固拒否して今に至っています(笑)

ある人がこんなエピソードを教えてくれました。
その人には6歳の子どもがいて、一緒に遊園地でジェットコースターに乗ったそうです。
カタカタカタカタと、高いところまで登ったらそのあとは急降下し、そして右へ左へ、上へ下へと、アップダウンとジグザグに激しく揺れに揺れて子どもがギャーギャー叫んでいました。
その間父親も内心ビクビクしながらも、ギュウっと子どもの手を握っていました。
無事終わり、子どもに感想を聞きました。
「どうだった?怖かったよね?」
すると子どもは言いました。
「怖かったけど大丈夫。だってパパが隣にいたから」

私たち信仰者の歩み方も似たようなものではないでしょうか。
人生を歩んでいれば、急に右に行ったり左に行ったりなど進路変更を余儀なくされ、調子が良いなと思えば、急に下がってどん底になってしまうことを体験する、激しく揺らされる時がある。
その時は怖くて叫ぶかもしれません。
しかし、ジェットコースターに乗った子にとって隣に父親が一緒にいたことが支えになったように、私たちも人生において右に左に、上に下に振り回されることがあっても、私たちの隣にはキリストが共におられる。
この事実が私たちを根底から支えてくれるのではないでしょうか。

本日は信仰者をテーマに3つのポイントでみていきたいと思います。

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1つ目のポイントは、信仰者とは、御言葉を聞いて行う者、ということです。

聖書は言います。
Luke 8:19
さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、大勢の人のためにそばに近寄れなかった。
Luke 8:20
それでイエスに、「母上と兄弟方が、お会いしたいと外に立っておられます」という知らせがあった。

キリストが多くの群衆に神のことを語られた時、キリストの母と兄弟たちがやってきました。
母とは、マリアのことです。
そして兄弟というのは、母マリアと父ヨセフの実の子であり、キリストにとって弟、妹の存在です。
この家族達が、キリストに会いに来ました。
しかし多くの群衆たちがキリストの周りを取り囲んでいたので、近づくことができませんでした。

そこで家族が、「私たちはキリストの家族だ、会いたい」と言い、おそらく伝言ゲームのように伝わっていったのでしょう。
それをキリストが耳にした時、キリストは言いました。
Luke 8:21
しかし、イエスはその人たちにこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです。」

キリストは、この時、本当の家族とは何かを教えられました。
キリストにとって本当の家族は、神の言葉、つまり神の子であるご自分の言葉を聞いて行う人たちが真の家族である。
それは血縁関係を超えるものであると。

日本では、企業や伝統芸能など、家族、親族関係が運営をすることが多かったりします。
世襲制というもので、親子など家族で組織を作っていくことを重んじる。
それは血のつながり、血縁関係を大事にし、一族を守ろうとする意識があるからです。
私たちも、友人を大切にはしますが、やはり親や兄弟、子どもというのは何かあれば優先して動くことがあります。
それは血の繋がりを大切にしているからです。
このように、血のつながりというのは、私たちの関係を強く結ぶものであります。
しかしそれ以上に大切なのは、キリストの言葉に従っていく、神の家族であると。
なぜなら、神の家族というのは、死んでもなお永遠に続くものだからです。
どんなに血の繋がりがあっても、死ぬ時には関係が断たれてしまいます。
しかしキリストの御言葉によって救われ、新しい命を得た者達は、たとえ血の繋がりがなかったとしても、とこしえに共に生きる関係になる。

だからキリストは、血縁関係を超える神の家族、信仰者こそが、兄弟姉妹と言われたのです。
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ではその信仰者の歩みとは一体どのようなものでしょうか。
2つ目のポイントは、信仰者は、嵐に会うことがある、ということです。

聖書は言います。
Luke 8:22  
ある日のことであった。イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、弟子たちは舟を出した。
Luke 8:23  
舟で渡っている間に、イエスは眠り始められた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、彼らは水をかぶって危険になった。
Luke 8:24  
そこで弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、私たちは死んでしまいます」と言った。イエスは起き上がり、風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪になった。

ある日、キリストは弟子たちと一緒に船に乗り、湖、、、これはガリラヤ湖のことです、「この向こう岸に渡ろう」と言われました。
弟子達はキリストの言葉に聞き従い、舟を出しました。
弟子たちの中には漁師たちがいましたから、キリストは舟の運転を彼らに任せていました。
途中キリストは、舟に揺られて眠ってしまいました。
キリストはこれまで、来る日も来る日も非常に多くの群衆を相手にメッセージをし、たくさんの癒しなどをして疲れ果てていたのでしょう。
だからキリストは船の中で眠られました。

しかし、しばらくすると突風が湖に吹き下ろして来て、弟子たちは水をかぶりはじめ、命が危なくなりました。
嵐になり、ベテラン漁師たちの力をもってしても、舟が沈みそうになってしまったのです。
ガリラヤ湖というのは、横から見るとすり鉢上の湖であり、山から風が吹き込むと、湖は大荒れになることがあります。
今までは晴れていたかと思うと、急に雲が厚くなり雨が降り出し、風が強く吹き荒れ狂うような状態になることがあります。

ベテラン漁師たちはそのことを知っていました。
彼らは長年そのような状況を何度も何度も経験した人たちです。
しかし今回は想定以上の嵐に会い、ついに舟に水がたまりだし、このまま行くと舟が沈んで自分達が死んでしまうと恐れました。
舟がグワングワンと大きく揺れ、波が舟に入ってくる。
その水をみんなで必死にかき出していく。
ところがそのような非常事態の中でも、キリストはなぜか眠っておられました。

最初弟子たちは、ひどく疲れているキリストをできるだけゆっくり寝かせてあげようと思っていたことでしょう。
だからできる限り自分たちの力でこの嵐に対抗しようとした。
しかし舟が大きく揺れて水が容赦なく入ってくる中で、このままだと舟が沈没すると思い、流石に寝ているキリストに「先生、先生、溺れそうです、死んでしまいそうです」と言って起こしました。

もし私が弟子の立場だったら同じように叫ぶと思います。
「主よ、なぜあなたは寝ていて何もして下さらないのですか?
助けて下さらないのですか?
今私たちは困っているんです、溺れかけているんです、死にそうになっているんですよ。」と。
このように、嵐によって大きく揺れる中で、何もして下さらない、眠っているように思えるキリストに対して叫びたくなる。

私にとって、自分の人生の中で大きな嵐に会い、大きく動揺したのは、大学生3年生の時でした。
家族で唯一のクリスチャンであった母が急に倒れた時です。
検査で肺に何か陰のようなものがある、と分かり、後日精密検査をしました。
その結果分かったのは、肺ガンステージ4でした。
肺全体にガンが広がっていたため手術は不可能。
余命がもうあまりない状態でした。

今までいて当たり前だった母の命が消えかかっている、、、その現実を知って、私は大きく動揺しました。揺らされたのです。
人はいつか死ぬ、、、、頭では分かっていたつもりです。
親族の葬儀にも出たこともありました。
しかし一番身近な人の命がもう少ないことを通して、改めて知りました。
人はいつか必ず死ぬと。

母は真面目なクリスチャンでした。
もちろん完璧ではありません。
でも、子どもの私から見ても母の普段の日常生活は精一杯、御言葉に従って歩んでいるように見えました。
しかし、たとえ御言葉に聞き従う神の家族、信仰者であってもガンという命を脅かす嵐が襲ってくる。

発券は遅かったのですができる限りのガン治療はやりました。
保険外の治療もやった。
しかし効果はあまりありませんでした。
どんなに祈り、治療を尽くそうが、病気は一向に回復しない、、、私から見たらその時の状況は、まるでキリストが眠っていて、何もしてくれないように見えたのです。

その時私は思いました。
「主よ、なぜあなたは何もしてくださらないのですか、起き上がって助けてください」と。

今回の箇所でキリストが「湖の向こう岸に渡ろう」と言った時、弟子たちがその言葉に聞き従わず、自分勝手な判断で進んで行って、そこで嵐に会うならまだ納得できます。
それは御言葉に従っていないから、嵐に会うのだと。
しかし、弟子たちは「向こう岸に渡ろう」というキリストの言葉に聞き従って舟を出しました。
それでも、彼らの命を脅かす嵐に会った。
私たちは心のどこかで、御言葉に従い続けるなら、苦しみも困難もない、静かで快適な船旅が約束されている、と思うのではないでしょうか。
しかしそうではない。
今日の聖書箇所が示す通り、たとえ御言葉に聞き従う信仰者であっても、嵐に会うことはある。

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では私たちはどうしたらいいのでしょうか。
3つ目のポイントは、信仰者は、嵐ではなくキリストを恐れ敬う、ということです。

聖書は言います。
24節 イエスは起き上がり、風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪になった。
Luke 8:25  
イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」

弟子たちが起こしたことによって、キリストは眠りから覚めました。
そして風と荒波をお叱りになりました。
すると嵐は静まって、今までの暴風が嘘のように、穏やかな湖に戻りました。
キリストが言葉を発しただけで、嵐がおさまりました。

そしてキリストは弟子たちに言います。
「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」
キリストは弟子たちに、「あなた達は信仰が無い」と言ったわけではありません。
「どこにあるのか」と言うように、この嵐の中でどこかに吹き飛んでしまった彼らの信仰を問いました。

弟子達は今まで数々の奇跡などを通してキリストが神の子であることを信じていました。
しかし嵐が来た時、すっかりそのことを忘れ、嵐に心が捉えられてしまいました。
キリストより、今目の前の問題の方が恐ろしい、力が大きいと。
だからキリストはここで、言葉だけで嵐を静めることによって、弟子達が恐れている嵐をも従わせる力を持っていることを、ここで改めて弟子達に示されたのです。

よって弟子達は、嵐を静めたキリストを見た時こう言いました。
25節 弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」

今まで弟子達は嵐を恐れていた。
しかしこの時彼らは、キリストを恐れ敬うようになりました。
このお方が言葉でただ命じれば、風も水も従うような偉大な力を持っておられるお方だと。
当時、風や水がある湖、海というのは、悪魔がいるような場所と恐れられていました。
だから風や水を従わせるというのは、悪魔を従わせる力を持った真の神しかできないと信じられていました。
そのため弟子たちは、言葉だけで激しい嵐を納めるキリストこそ、真の神であることを改めて知りました。
確かに嵐は恐ろしい。しかしキリストはこの嵐をも治めるもっと恐ろしい力を持っているお方。
このお方が、今我々と一緒の舟に乗っていて下さる、、、そのことに気付いたのです。
そう、信仰者とは、嵐をもおさめる恐ろしい力を持っているキリストが私たちと共におられることを知る人のことです。

私の母が亡くなる少し前、病院で酸素マスクをしている状態の時でした。
苦しんでいる母に何かすることができないかな、と思い、母がいつも持っていた聖書を開き、好きな御言葉を読みました。
Is. 40:31
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、 鷲のように、翼を広げて上ることができる。 
走っても力衰えず、歩いても疲れない。

この時、今まで苦しんでいた母が微笑みました。
病の痛みがあるという嵐の中で、御言葉が響く時、心に平安、静まりが生まれました。
それを見た時私は気付かされました。
「人はいつか死ぬ。
必ず死ぬ。
しかし聖書の言葉、御言葉は、生きる時も、死ぬ時も、心に慰めと平安を与えるものだ」と。
そしてこの出来事を通して私は思いました。
「神の言葉は、たとえ死に直面している者にも静まりを与える力をもっている。
人が死の淵を歩む時でさえ、人に希望と平安を与えることができるこの御言葉を、私は生涯を通して一人でも多くの人に伝えていきたい」、、、これが私が牧師になった原点の一つです。

私たちが人生を歩む時、様々な嵐に会い、揺らされることがあるでしょう。
たとえ忠実に御言葉に従っていったとしても。
その時私たちは恐れます。
しかし私たち信仰者は、問題を恐れるのではない、神の子であるキリストを恐れる。
風や水や嵐をおさめる、、、いやそれだけではない、私たちにとって1番の敵であり、私たちがこの地上で生きている中で最後に訪れる最大の嵐、死をも、キリストは復活の力によって勝利して下さったお方。
私たちが最も恐れる死をも打ち砕くほどの力を持っているお方が、今や私たちの敵ではなく味方となって、一緒に舟に乗り、私たちを支えて下さっている。

しばしば教会は舟にたとえられてきました。
教会という舟は歴史上、何度も何度も大きな嵐に会いました。
迫害され、揺らされ続けてきました。

しかし、この舟は、どんなに揺れることがあっても、沈むことは無い。
たとえ死という嵐が来ても、決して沈まない。
なぜなら私たちが乗っているこの舟は、キリストが死から勝利した手によって下から支えられているから。
だからどんなに厳しい状況を通らされようと、私たちは沈むことはないのです。

このように、最大の嵐である死をも勝利された神の子キリストが、私たちと一緒の舟に乗り、勝利の手で支え続けて下さる、、、このことに信頼して歩んでいくのが私たち信仰者の姿です。

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結語
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聖書は言います。
Luke 8:25  
イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」

今日は信仰者をテーマに3つのポイントで見てきました。
1つ目、信仰者とは、御言葉を聞き従っていく者
2つ目、信仰者は、嵐に会うことがある
3つ目、信仰者は、嵐ではなく、キリストを恐れ敬う者
ということです。

キリストは今日も私たちに言われます。
「嵐が来て揺れると、すぐに動揺してしまう者たちよ。
万物を支配し、そして死をも支配している私があなた達と同じ舟に乗っているではないか。
私があなた達を支える。
この私を信頼して、今日も舟を漕いで行きなさい」と。

だから私たち教会は、どんな嵐が来ようとも、揺らされようとも、決して沈むことのない舟に乗っていることを信じ、今日もキリストと共に舟の旅を続けていこうではありませんか。

祈ります。
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祈り
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天のお父様、私たちは人生の船旅で、問題が起きて揺れるとすぐに慌ててしまう者です。
そして何もしない、眠っているようなあなたに対して、「なんで何もしてくれないのですか」と叫び出す信仰の薄い者です。

しかしあなたは私たちにとって最大の嵐である死をも打ち勝ったお方です。
あなたと共にいる舟は揺れることがあっても、決して沈むことはありません。
勝利の右手によって私たちを下から支えて下さっているからです。

そのあなたが私と同じ船に乗ってくださっている、、、この事実に目を向けながら、今日も人生の船旅をしていくことができますように導いて下さい。

イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。


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