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230416礼拝メッセージ【確実なものとは何か】


・中心聖句
ルカによる福音書/ 01章 04節
お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのです。

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・イントロ
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これから私たちは、新約聖書のルカによる福音書を毎週少しずつ読み、今日も生きる神の御言葉として共に聞きながら礼拝をしていきたいと思います。
イースターやペンテコステ、クリスマスなどは前後の週では、それに関する箇所を読みますので、ルカ福音書を全て読むまでにこれからどのくらいかかるか予想つきません。
おそらく数年かかると思います。
そうなると皆さんの中にはルカを読み終わるその数年後、一体自分は何をしているのか、どうなっているのか、そういうことを思うかもしれません。

この数年を振り返っても、見えない病原菌によって私たちの生活が一変し、また国と国同士の戦争が始まるなど、誰がこんな世の中になるなんて予想できた人がいるかというほど予想のつかないことが起こっているのです。

これから数年の間に様々なことがたくさん起こると思います。
良いこと、楽しいこと、悲しいこと、苦しいこと。
しかし、そのような先の見えない、不安定な中だからこそ、ルカが記した変わることの無いキリストの確かな救いの出来事に耳を傾け、共に私たちは生かされていきたいと思うのです。

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・「お受けになった教え」
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福音書には4つあります。
それぞれの特徴がありますが、ルカによる福音書の大きな特徴の一つ、、それは特定の人物に当てた書物である、ということです。
3節「敬愛するテオフィロ様」

テオフィロ様、これは脚注ではテオフィロ閣下と書かれています。
閣下。
言葉から連想されるように、大変位の高い方と思われます。
詳しいことはあまりわかっていませんが、このテオフィロという人は当時の権力者であった。
その人に向けてルカはこの福音書を書いたのです。

このテオフィロは聖書の教えを受けていました。
ルカによる福音書/ 01章 04節
お受けになった教えが

この「お受けになった」という元々の言葉は、求道者や信仰者を教育することを表すカテキズムと訳される言葉です。
カテキズム、これは信仰問答であり、求道者や信仰者に対して、キリスト教の信仰とはどういうものか、そのようなものを教えていくことです。

私たちもキリストを信じる時、いきなり洗礼を受けるというより、聖書の教えを受けます。
ホーリネス教団であれば命の道、とか四つの法則とか、そのような聖書の教えを分かりやすくまとめているテキストを使い、福音を知っていくのです。
そこには聖書とは何か、神について、人間について、罪とは何か、そこからどのように救われていくのか、それらの教えを受けて、「私はそのことを信じる」そう信仰告白して洗礼を受けていきます。

そのような意味の言葉が使われているので、おそらくテオフィロも、聖書の教えを受けている求道者であったのか、信仰者になりたてなのかと思われます。
そのテオフィロに向けてルカは語るのです。
あなたのお受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたい。

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・「確実なもの」
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でも、ルカがわざわざ、あなたの受けている教えが確実なものである、と強調するのは、おそらくテオフィロが、この聖書の教えが本当に確実なものとは思えなくなる時があった、揺れ動くことがあった、だからルカはわざわざテオフィロに向かって、この教えは確実だ、そう強調して書いたと思うのです。
きっとテオフィロは、イエス・キリストのことを聞いて、御言葉を聞いて、その時は「うんうんそうなんだ」と納得するのだけれども、どこかで不確かさがふっと残ってしまう。
いざ自分の生活に戻った時に、ああやって聖書はいうのだけれども、現実は問題があって、あの聖書の言っていたことは本当なんだろうか?そのように疑問に思い、揺れ動いてしまっていたんだと思うのです。

でもこの不確かさは私たちも経験をすると思うのです。
神の言葉を聞く、その時はそうか、と晴れ晴れした思いになりながらも、月曜になるとその心が揺れてくる。
私たちがそれぞれ1週間の歩みを振り返っても、そこに自分の確かさがどれだけあっただろうかと思うのです。
自分の生活で問題が起こってくる。
家庭でも職場でも、自分が置かれた場所で予想がつかないことが起こる。
その時に私たちは揺れ動きながらあっちにこっちに行ったり来たりするのです。
おぼつかない足取りで何とか今週やってきた、、、そのような思いになる。

しかしルカは言うのです。
お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたい
ここに私たちを根底から支える確かな基盤がある、キリストがあなたを愛され、その愛は揺るがず確実なものであること、それをよく分かっていただきたい、そのようにルカはテオフィロに、そして私たちに語りかけるのです。

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なぜ確かなのか
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ではなぜルカはこの聖書の教えが確かであると言えるのでしょうか。

1:ルカによる福音書/ 01章 01-02節
私たちの間で実現した事柄について、

この「実現した」は元々の言葉では受け身で書かれています。
実現された方、完成した方がおられる。
誰が実現されたのか。
それは神です。
神が実現された。
人間が何かを計画し、誰かの考えが実現した、というのではない。
また、成り行きによって自然と実現したのではなく、神ご自身がご計画をたてて実現されたのです。

では神は一体何を実現されたのか。
それはイエス・キリストのことです。
イエス・キリストがこの地上に来られ、語られ、奇跡をなし、そして十字架にかかり、復活された。
それは神が人間を罪から救うために計画をたて、そして人となられ、私たち人間に救いの道を打ち立てられた。
そのことが私たちの間で実現されたのです。

この神が完成してくださったイエス・キリストの救いの出来事を、当時の人々が何人も見ていて、それを元にルカは綿密に初めから詳しく調べて、順序正しく書いてまとめ上げて物語にしてテオフィロに書いていった。
そう、この福音書に書かれたイエス・キリストの物語は、ルカが一人で妄想で書いたのではないのです。
神が実現された出来事を元に書いたのだから、これは確実なものである、と。

だからルカはテオフィロに伝えるのです。
あなたがお受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたい

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・私たちの確かな出来事
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このルカは医者であると言われています。
そして彼は使徒パウロと共に伝道をし、パウロを助けた人でした。
パウロがローマの牢獄に入った時にも、その健康を気遣ってパウロを訪ね続けて仕えました。
パウロと長い間寄り添った。
ただしルカはイエス・キリストの直接の弟子ではありません。
12使徒の一人ではありませんでした。
また、キリストの十字架と復活を直接見た当時の人でもないと言われています。
それならば、医者で教養があり事実を順番立てて正確に書くルカが文章を書くのですから、
私たちの間で実現した事柄、ではなく、彼らの間で実現した事柄、と書いた方がいいと思うのです。
ルカ自身は見ていないのだから。
しかしルカはそれを彼らの間で、とは書かない。
あくまで私たちの間で起こった事、と書く。

なぜか。
それはルカ自身が、自分の経験として知ったから。
神がなされたキリストの確実な出来事は、当時のその現場にいた人たちだけに起こったことでなく、ルカ自身がイエス・キリストの十字架と復活の事実をまとめようとしてるうちに、キリストご自身がルカに現れ、来てくださった。
ルカはそのことを信仰を持って受け取ることによって、当時の彼らだけではない、自分にも起こったキリストによる救いの出来事として受けとめていったと思うのです。
だからルカは、彼らの間で、ではなく、私の、私たちの間で起こった出来事、とルカはわざわざ書いたと思うのです。

これは今生きる私たちも体験する事だと思います。
キリストによって救われた時、彼らの出来事から、私たちの出来事に変わっていく経験を。
キリストが十字架にかけられ復活された、、、それをどっかで聞き多少知識もあるけど、それはどこか遠く2000年以上前に起こった遠い遠い外国の出来事であり、自分には関係のないことと思っていた。

でもそのキリストが、様々なきっかけを通して今の私に歩み寄って下さった。
手を広げながら「愛する子よ、あなたの罪は私の十字架によって赦された」そう差し迫って下さった。
そしてそれだけでなく、「私と共に甦り、新しい命によって生きよ」そう言われる。
それを信じ受けとめる時、神が実現された2000年以上前に起こったこのキリストの救いの出来事が、どこかの遠い話ではなく、今の自分に確かに起こった事として受けとめ、そして洗礼を受けていったと思うのです。
そうやって福音は広がっていき、私たちは教会の輪の中へ入っていき、こうして今共に集まって私たちを救って下さったキリストを礼拝をしている。

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・結語
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聖書は言います。
3:ルカによる福音書/ 01章 04節
お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのです。

ルカはテオフィロに書くのです。
あなたが受けている神が実現なさったキリストの救いの出来事は確実なものです、と。

今までキリストの出来事は歴史上、沢山の人から批判され、疑われてきました。
本当にキリストは存在していたのか?十字架で死んだのは本当か?仮死状態だったのではないか?
復活は本当か?弟子達が盗んだんじゃないのか?
そのように人間は神の実現された事実を疑い続けました。
しかしそんな疑いを軽く払いのけるように、今も世界では人種も場所も文化も違うのに、キリストと出会う人がたくさん起こされ、今も福音が広がり、私たちの間で起こった出来事となっている。
2000年以上に及ぶ歴史の審判の中で今日も神は勝利し続けているのです。
そりゃあそうです。
神が実現なされたことだから。
それを人間が打ち崩すことなんてできるはずがない。

だから私たちはこのキリストの救いの出来事に信頼していい。基盤にしていいのです。
例え日々の生活で揺れても、またここに戻ってくればいい。

私たちの間で起こった確実なキリストの救いの出来事。
これに信頼し、不確実で揺れ動く世の中をキリストと共に歩んでいこうではありませんか。

祈ります。

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祈り
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天のお父様、私たちは不確実な世界に住んでいます。
今まで平和だと思っていたのが、一つの病によって世界が代わり、またスイッチ一つで戦争が始まる、の見る時、私たちが住むこの世界がいかに儚いものかを思い知らせれます。

しかしそのような世界に生きているからこそ、神であなたが実現された、揺るがない確実なキリストの救いの出来事を共に経験し、それは遠い昔に起こったことではない、今の私たち教会に起こっていることとして受け止め、この不安定な世界に立ち向かうことができますように導いて下さい。

イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。


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