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【教会が一つになる】240526礼拝メッセージ

https://youtu.be/yrGtvWegsUQ

「一つとなって」
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イントロ
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聖書は言います。
使徒言行録/ 02章 44節
信じた者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、


今日のテーマは「一つになる」「一致する」です。

周りの人たちと一つになる、一致する、という言葉を聞いて私が思い出すのは、子どもの頃の運動会の記憶です。
徒競走や、玉入れなど競技に出て、同じチームの人たちと協力しながら、みんなで一つとなって優勝を目指していきます。
その姿は、本人たちだけでなく、それを見ている親達も夢中にさせるものです。
私が親の立場になって、子どもの運動会を見る側になっても、まるで自分ごとのように一緒に応援してしまうことがあります。
たとえば、最後の種目のチーム対抗リレーとかはつい熱くなって応援し、自分の子のチームが最後追い抜いて優勝した時には、自分ごとのようにヨッシャーと大きく叫んでしまいます(笑)

このようにみんなが一つになって、一致して物事に取り組んでいく姿というのは、やっている本人たちはもちろん、周りの人達をも巻き込む力があるのではないでしょうか。

聖霊が降った日、教会が誕生しました。
教会は皆一つになり互いに愛し合い助けあっていました。
その教会の姿は、周りの人も引き寄せられる魅力がありました。

今日は、一つになる、をテーマに初代教会の様子を3つのポイントで見ていきたいと思います。

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1、
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1つ目のポイントは、教会は一つとなって、様々なものを共有する、ということです。

聖書は言います。
使徒言行録/ 02章 44節
信じた者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、
45:使徒言行録/ 02章 45節
財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合った。

ペンテコステの日に、聖霊に満たされたペトロは大勢の人に向かって説教をしました。
この説教により、多くの人が心を打たれ、その日だけで三千もの人が洗礼を受けた聖書に書いてます。
三千人が洗礼を受ける、、、、いったいどのようにして洗礼を授けていったのかとあれこれ想像してしまいます。
当時の洗礼は浸礼といって、川などで水に全身を浸かるのが一般的でしたから時間がかかったでしょう。
三千人が同じ川などで受けたのか、それとも使徒達が手分けしてあちこちの池や湖などでもしたのか。
こういう想像をついてしてしまうほど、多くの人たちが、聖霊の働きによって救われていきました。

そして洗礼を受けた彼らは、「救われて良かった。じゃ帰ろう」ではなく、彼らは一つになって、すべての物を共有しました。
具体的には、自分達の財産や持ち物を売って、必要に応じて、、、それは貧しい人、夫が亡くなって生活の糧がない未亡人であったり、病で動けない人などに分け合っていきました。

この教会の様子を見て、周りにいた全ての人たちに恐れが生じました。
使徒言行録/ 02章 43節
すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。
「不思議な業としるし」というのは、病の癒しなど奇跡的なことが多く含まれていたことでしょう。
しかしそれ以上に人々に恐れを生じさせたのは、教会で様々な国籍や性別の人がいたにも関わらず、皆一つになって、互いに分かち合い、助け合う姿を見たからではないでしょうか。

人は、自分達の力だけでは、家庭や職場、地域などにおいて、一つになることは難しいものです。
たとえ愛する人と一緒にいても、お互いの主義主張がぶつかりあって、なかなか一致になることができない、、、これが私たち人間の罪の姿です。
つい、相手の欠点ばかりに目がいってしまったり、つぶやきたくなる。
このように自分の価値観でしか相手を見れず裁いてばかりになってしまう、、、そんな私たちです。
しかし人々は、生まれたばかりの教会の中で、3000人以上の人が皆一つになって支え合う姿を見ました。
身分も、国籍も、性別も、年齢も違う人が一つとなって愛し助け合う姿。
それは人の力だけでは到底できない、まさに聖霊の力、神業です。
周りの人々は教会に集う者たちが一つとなる姿を通して、そこに神がおられることを感じたのです。
神の臨在を感じる時、人はどこかに恐ろしさ、畏怖の念を抱きます。
だから周りの人たちは、使徒達が病を癒すなどの奇跡的なものだけでなく、様々な背景の人が一つとなり、一致して全ての物を共有する姿を見て、畏敬の念を抱いたと思うのです。

全ての物を共有することを、人間の力だけでやろうとしたのが共産主義です。
聖霊の力ではなく、国という力を使って人々の財産などを強制的に取りあげ、管理して、財産や持ち物を平等に分けようとしました。
しかしその思惑のほとんどが失敗に終わりました。
共産主義というのは、一見平等に見えて、結局地位が高い人が多くものを手にすることができるような独裁者が生まれやすいものです。
そして下の人たちは貧しくなり不満がたまっていきやすいのです。
人の力で強制的にお金や物を管理しようとしても、そこには愛のある一致は生まれません。
おのおの自発的に捧げていくところに、本当の一致が生まれていくと思うのです。

使徒言行録を読み進めていくと分かるのは、信仰者たちが自分達の財産などを共有したのは、救われたら教会が信徒から無理矢理財産を没収したのではなく、信徒たち自らがすすんで分け与えていった愛の行為であり、自由意志に基づくものであったということが分かります。
使徒言行録/ 05章 04節
売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったではないか。

信仰者達は各自の財産を売ることも売らないこともできました。
売ったとしても、そのまま自分のものとして使うこともできました。
彼らはその自由の中で、自ら進んで財産や持ち物を分かち合って貧しい人、生活困窮者など他者の必要あった時に惜しまずに分け与えていったのです。

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2、
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ではなぜ教会の人たちはこのように性別、年齢、人種を超えて一つとなることができたのでしょうか。
二つ目のポイントは、バプテスマを受けて、一つとなる、ということです。

すべての物を共有していた教会の人たちというのは、ペトロの説教に応えた人たちでありました。
ペトロは言いました。
使徒言行録/ 02章 36節
だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

ペトロは群衆に向かって言いました。
「ナザレのイエスをあなたたちは十字架につけて殺してしまった。
様々な奇跡やしるしを通して、キリストこそ神から遣わされた御子であったことを示していたのにも関わらず、あなたたちはキリストを十字架に磔にして殺してしまったのではないか。
しかし神はこの十字架につけたキリストを救い主とさせたのだ」と。
このペトロの話を聞いていた人たちは、神の子であるキリストを殺してしまった自分達の罪に気付かされていきました。
そして彼らは、このままでは自分が神の裁きによって滅びる存在になってしまうことを知りました。
だから彼らは
使徒言行録/ 02章 37節
人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに、「兄弟たち、私たちは何をすべきでしょうか」と言いました。

するとペトロは言いました。
使徒言行録/ 02章 38節
そこで、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。

悔い改めること、、、それは単に反省するというより、神に立ち返ることです。
たとえ自分たちが真の神の子キリストを十字架にかけたほどの罪を犯したとしても、それでも神はこのキリストの十字架を通して赦す道を備えて下さった、その神の愛に気づき、立ち返ることです。
そしてこの神の愛に立ち返り、キリストこそ我が救い主、メシアであることを信じ、その表明として洗礼を受けよ、とペトロは言いました。

洗礼というのは、浸礼の場合、一度水に体を全部沈め、そして起き上がらせます。
一旦水に体を沈めることで、古い自分がキリストと一つとなって共に死ぬこと。
そして水から出ることによって、信仰者はキリストと共に、一つとなって復活の命に生きることを意味します。
キリストは、私たちを滅びから救い出すために、私たちと一つとなって死んで甦って下さいました。
他人をすぐに裁き、批判してしまい、なかなか一致することができないような私たち罪人を救うために、罪無き神の子キリストが十字架で命を捨てるほどに私のことを愛いて下さった、このことを洗礼を通して知る時、喜びが生まれます。
無条件で愛されている喜びです。
そしてこの喜びが、自発的に様々な物を共有し、必要に応じて互いに仕え合うようになるのです。

今日招きの言葉を読みました。
13:コリントの信徒への手紙一/ 12章 13節
なぜなら、私たちは皆、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの霊によって一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったからです。

国籍が違っても、身分が違っても、聖霊を通して洗礼を受けることによって、一つのキリストの体となっていく。
一つの体というのは、キリストの体であり教会のことです。
洗礼を受けることによって、私たちはキリストの体となり、それぞれの役割に応じて働きをなしていく。
誰かがキリストの手となり、困った相手の手助けし、誰かがキリストの足となりながら、苦しむ人の元に行く、、、この姿がキリストの体であり教会です。

教会が、お金や物品など様々なものを出し合って、困っている人を助けるために、震災支援活動をしたり、炊き出しをしたりなど、一見NPO団体などの活動とあまり変わらないような働きをすることがあります。
しかしこのような教会の活動の根底にある動機というのは、キリストが私を救うために一つとなって共に死に甦って下さったほどに私たちを愛して下さった、このキリストの愛が根底にあるからこそ、私たちは自発的に持ち物を出し合い、助け、支え合うことができるようになるのです。

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3、
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三つ目のポイントは、喜びと真心をもって、一つとなる、ということです。

聖書は言います。
使徒言行録/ 02章 46節
そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、
47:使徒言行録/ 02章 47節
神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。

彼らは単に財産を分けて支えあっただけではありませんでした。
毎日神殿に集まりました。
おそらくあまりにも信仰者が急に増えたため集会をする場所がなかったからだと思われます。
当時は、神殿以外には多くの人々が集まれる場所はあまりありませんでした。

そして家では、パンを裂いて、喜びと真心をもって食事を共にしていました。
「パンを裂く」と、「食事をする」は同じことだと見ますが、聖書はあえて分けてあるので、「パンを裂く」というのは聖餐を現していると思われます。
彼らは家ごとにパンを裂くことによって、この裂かれたパンはキリストが十字架で裂かれた体を意味し、また一緒に葡萄酒を飲むことによって、この葡萄酒はキリストが十字架で流された血によって自分たちの罪が赦されたことを思い起こしていきました。
だから、聖餐を通して自分たちがキリストによって救われていることを実感することによって、彼らは喜びがあふれ、共に真心をもって食事をし、賛美をしていったのです。
「私たちはキリストによって罪赦され救われた。あなたもそうだ、わたしもそうだ、さあ喜びの食事をし、共に歌を歌おう」と。

これらの教会の姿を見て周りの人たちはどのような反応をしたでしょうか。
47節後半、民衆全体から好意を寄せられた。
教会は周囲の人、地域の人たちに好意を寄せられていました。
聖霊が注がれたことによって生まれた教会は、地域の人から愛されていたのです。

教会というのは、内輪で盛り上がっていて世の中に浮いている存在ではありません。
地域の人に好意を寄せられるところでもあります。
世の中の人から見たら教会は、宗教ということで、他とは何か違う異質性というものを感じさせるかもしれません。
しかし初代教会は、それがそのまま壁となって、世間や地域から、「あの建物の中では何が行われているわからない」といって、周りの人が近づくのが嫌がるような恐怖の集団ではなく、地域の人に好意をもって見られていた存在でありました。
一つになって互いに支えあっている姿が自然と周りの人の目にとまり、教会を通して神の愛がにじみでていたからです。
この教会の姿は伝道につながります。

47節 こうして、主は救われる人々を日々仲間に加えてくださったのである。
神は教会に、救われる人々を日々仲間を送って下さいました。
もちろん教会として伝道をすることもあったでしょう。
しかし何より神ご自身が、教会に新しい仲間を送って下さったのです。

私が定期的に読む本で、リックウォレンの「五つの目的が教会を動かす」という教会成長の本があります。
この本の冒頭でこのような趣旨のことが書いてあります。
「ほとんどの教会成長の本は、どうやったら良い波起こせるか、どうしたら未信者が来るかを問うている。
しかし波は神が起こされる。
今日、神は福音に受容的な人々という波を次々と創り出しておられる。
世界に問題があふれているこの時代であればこそ、人々がキリストの福音に心を開いているように見える。
私たち教会は波を起こすことを問うのではなく、神が起こされたこの波にどのように受けとめ乗るかである。」

今日も神は、私たち教会にキリストの救いを必要としている人々を送ろうとして下さっています。
神が必要に応じて、最善の時に波をつくり出そうとされています。
霊的に飢え渇いている人を教会に送ろうとして下さっている。
この波に私たちは乗る。喜んで、真心を持って迎えるのです。

私たち安城教会は、地域の人に好意を寄せられる教会でありたいと思います。
「安城教会さんね、あの人たちはいつも一つとなって、困っている人、苦しんでいる人たちを助けようとするところね」このように言われる教会でありたいと思います。
そして、新しく救われる人たちを喜んで真心もってあたたかく迎えていく、、、これがキリストによって救われた神の家族、教会の姿です。

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結語 共同体 神の語りかけ
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聖書は言います。
使徒言行録/ 02章 44節
信じた者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、

今日「は一つとなる」をテーマに三つのポイントで見てきました。
1つめ、教会は一つとなって、様々なものを共有する
2つめ、バプテスマを受けて、一つとなる
3つめ、喜びと真心をもって、一つとなる
です。

キリストは今日も私たちに言われます。
「私と一つとなって共に死に、甦りの命をあずかった者たちよ。
その救いの喜びをもって、互いに分かち合い、仕えあっていきなさい。」

だから私たち教会は、救われた喜びをもって一つとなり、神が送られる新しい仲間をあたたかく受け入れていこうではありませんか。

祈ります。
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祈り
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天のお父様、聖霊によって生み出された教会は、一つとなって支えあっていました。
それはあなたによって救われた喜びから生まれてくるものです。

そしてその教会の姿は、周りの人たちを魅了し、仲間が加えられていきました。
どうぞ私たち安城教会も、あなたによって救われた喜びを持って、互いに助け合い、共に賛美をし、食事をしていき、その姿を通してこの地域にあなたの愛を証するものとして用いてください。

イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。


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