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【復活の朝の出来事】240331礼拝メッセージ

「復活の朝の出来事」
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イントロ
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 24章 06節
あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられた頃、お話しになったことを思い出しなさい。

みなさんイースターおめでとうございます。
イースターはイエス・キリストが十字架につけ死なれ、その後甦られたこと、復活されたことを祝う日です。

今日は復活をテーマに3つのポイントで見ていきたいと思います。

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1、
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1つめのポイントは、復活の知らせは、途方にくれた人たちの元に来る、ということです。

ルカによる福音書/ 24章 01節
そして、週の初めの日、明け方早く、準備をしておいた香料を携えて墓に行った。
2:ルカによる福音書/ 24章 02節
すると、石が墓から転がしてあり、
3:ルカによる福音書/ 24章 03節
中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。

週の初め、、、これは当時安息日は土曜日であり、週の初めというのはその次の日、日曜日のことです。
だからキリストが復活された日は日曜の明け方早くでありました。

金曜日にキリストが十字架にかけられ、そのまま安息日の土曜になってしまい、当時の律法では安息日には仕事をしてはならない、ということなのでキリストに従っていった女性達は墓に行こうとしても動けませんでした。
だから、安息日が終わった次の日の朝早くに、彼女達はあらかじめ準備していた香料をもって、キリストの死体が置かれた墓に向かったのです。
香料を塗るというのは、死体の腐敗を少しでも防ぐためのものです。
婦人達は、愛するキリストの亡骸に、何かできることはないかと思い、油をぬりに朝早く行ったのです。

墓に向かった女性達というのは、
ルカによる福音書/ 24章 10節
それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいたほかの女たち
でした。
彼女達は、キリストが福音を宣べ伝えていた頃から従ってきた人たちであり、キリストと使徒達一行に奉仕をしてきた人達です。
彼女達はいつもキリストのために食事を作ったり、衣服を洗ったりなど身の回りのことをなし、女性でなければできない細やかな心配りをしていた人たちです。
そして彼女達はエルサレムまでキリストに従って来て、そこで愛するキリストが鞭打たれ十字架にかけられ、死んでいく姿を見たのです。
きっと深い心の傷をうけたに違いないと思います。
愛するキリストが今やもう死んでしまった。
その体はやがて腐っていく。ユダヤ地方は気温が高いです。だから腐りが早い。
だからこそ、やれる限り自分たちが香料をキリストの体に塗ることによって、愛する人の体の腐敗を少しでも遅らせたかった、、、そのような思いを持って彼女達は、朝早く夜が明けないうちに墓に向かっていったと思うのです。

彼女達の行動というのは私たちも分かる気がします。
私たちも愛する人を失う、亡くすことがある。
その人とはもう喋ることができない。
でも少しでも長く、その人の体の傍にいたいと思う。
何か少しでもその人の亡骸にやれることをしたいと思う、、、それが、愛する人を亡くした時に思う人の心だと思うのです。

この時も、そのような思いが彼女たちの行動をかりたて、朝早くキリストの遺体が置かれている墓に向かわせるのです。
そして彼女達が墓に行ったら、蓋がしてあった石が横に転がっていて、墓の中に入ることができました。
しかし、彼女達が墓の中に入ってみると、そこにはキリストの遺体が見当たらなかったのです。

ただでさえ、愛する人を失うという失意のどん底にあるのに、そこで愛する人の遺体すらも無くなってしまったのです。
自分たちがせめて少しでも亡くなった人と一緒にいたいと思っているのにも関わらず、その体すら無い、、、そんな彼女たちの様子を聖書はこう記しています。

ルカによる福音書/ 24章 04節
そのため途方に暮れていると

途方にくれたのです。
この「途方にくれる」と訳されている元々の言葉は、道という意味の言葉に否定文がつけられている言葉です。
道が閉ざされてしまう、それによってどうしていいか分からず右往左往してしまう、、その様子が途方にくれるということです。
せめて愛するキリストの体に油を塗って、生前の思い出に浸りたいと思い描いていた道が、遺体が無くなることによって急にその道が閉ざされて、途方に暮れるのです。

東日本大震災などの津波によって家族を失った方々の悲しみがあります。
未だに行方不明の方がいる。
遺体が流されてしまって見つからないのです。そういった話を聞きます。
せめて遺体が見つかれば、丁寧に埋葬することができるのに、それすらもできない。
そのような報道を聞くと私たちは胸がつぶれる思いをします。

私の近所の方の長男は海難事故で亡くなりました。
その死体はとうとう見つからなかった。
親にとっては、せめて子どもの遺体をきちんと葬ってあげたい、このような思いがあると思うのです。

イースターの朝、日曜の朝、婦人達が感じた、途方にくれた思いというのは、このような愛する人を失い、そして遺体すらも無い心の痛み、苦しみにつながるものだと思うのです。
この人と一緒に少しでもいたい、という思いがどんなにあっても、その道が死によって閉ざされてしまう。
そんな途方にくれている人のところに、輝く光が、良い知らせが訪れる。

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2、なぜ復活したのか 預言通り
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2つめのポイントは、復活とは、神の約束を思い起こすこと、ということです。

途方にくれていた婦人達の前に立つ人物が現れました。
ルカによる福音書/ 24章 04節
そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに立った。

輝く衣を着た二人、、、それは天使が彼女達のそばに立ちました。
そして告げるのです。
ルカによる福音書/ 24章 05節
なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。

天使はいうのです。
あなた達はキリストを探しているが、探すところは間違えている、というのです。
「死者がいる墓にキリストはもういない、なぜならキリストは復活されたから。
このことは今までにもキリスト本人が言われてきたではないか」と。
7:ルカによる福音書/ 24章 07節
人の子は、必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する、と。

実際にキリストは今までに3回、ご自分が長老、祭司長、律法学者たちによって捕らえられ、殺され、三日目に復活することを預言しておられました。
この時、キリストと一緒にいた弟子達もそして彼女達も、キリストの復活を預言する言葉をきいていたはずなのです。
しかしこの時すっかり忘れていたのです。
あまりにの悲しみの中で、途方にくれている中で神の約束の言葉を見失っていたのです。

そう、私たちが深い悲しみの中にいる時、途方にくれる時、私たちはこれらに圧倒されて、神の希望の言葉を思い出せないことがある。

私たちは、大きな問題が立ち塞がる時、死が訪れる時、キリストが語っておられた永遠に続く命の道が閉ざされるように感じるのです。
キリストの約束の言葉が思い出せなくなってしまうことがある。
だから途方にくれる。右往左往する。

しかし天使は告げるのです。
ルカによる福音書/ 24章 06節
お話しになったことを思い出しなさい。

あなたたちにはすでに復活の希望が語られているのではないか。
神が約束をされているのではないか。
確かにキリストは十字架にかかり死ぬ。
しかしそれで終わりではない。
キリストが十字架にかかって死ぬことは必ず確かであり、それと同時に、三日目に復活することも必ず確かなのだ。
キリストは十字架で死んだけど、復活はしなかった、ということはありえないのだ、というのです。
なぜならどちらも神の約束、預言であり、必ず成就するものだから。
だからあなた達は死を目の前にして道が閉ざされたように思えても、もう迷わなくて良い、途方にくれなくてよい、キリストの約束の言葉を思い出しなさい、このように聖書は語るのです。
そう、私たちは甦りの約束を、御言葉を思い起こしていく。

私たち教会は、毎週礼拝をします。
なぜ私たちは毎週礼拝をするのでしょうか。
その一つはイエス・キリストが、十字架で死に、その後甦られそして今日も生きておられる、そのことを思い起こすためです。
私たちは日々の歩みの中で、様々な問題がふりかかってくる。
職場、家庭の問題、経済的な問題、病の問題、、、その中で自分の命の道がまるで閉ざされるような思いになることがあります。
はたして自分はこれらの大きな問題を抱えて、これからも生きていくことができるのであろうか?と目の前の歩む道が見えなくなるのです。
途方にくれる。
しかし毎週の礼拝を通して、死を打ち破られたキリストの復活の命への道を見出すのです。
私たちにはキリストがもうすでに備えて下さった復活の道がある、、、そのことを毎週の礼拝を通して思い起こしていくのです。
それは私たちがすぐに忘れてしまうからです。
目の前の問題を見て、恐れ、悲しむ時に、神の言葉、キリストの言葉を忘れてしまう者だから。
だから毎週、共に集まり礼拝し、今日も甦られたキリストが私たちと共におられることを思い起こしていくのです。

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3、
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ではこれから私たちはどうしていけばいいのでしょうか。
3つめのポイントは、復活の知らせを、皆に知らせる、ということです。

ルカによる福音書/ 24章 08節
そこで、女たちはイエスの言葉を思い出した。
9:ルカによる福音書/ 24章 09節
そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。
10:ルカによる福音書/ 24章 10節
それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいたほかの女たちであった。女たちはこれらのことを使徒たちに話した。

彼女達は、天使を通して、キリストが十字架で死ぬ前にあらかじめ甦られる約束をされていたことを思い出しました。
そして彼女達は、キリストの体が墓に無いというのは、誰かが盗んだりしたわけではなく、復活されたことを意味していることに気付いたのです。
そこで彼女達は、単に気付いて終わりではなく、帰って、弟子達、そして他の人たちに、空っぽの墓のことを知らせたのです。
「ねーねー不思議な話かもしれないけど、イエス様はお墓にいなかったのよ。
それはイエス様が以前から約束された通り、確かに甦られたんだわ」と。
そのようにして伝えていったのです。
そう、彼女達は復活したキリストのことをみんなに伝えに行ったのです。

それを聞いて使徒、弟子達はどう思ったでしょうか。
あそうなんだ、やったー、イエス様は確かに復活されたんだー、と喜んで飛び跳ねたでしょうか。
ルカによる福音書/ 24章 11節
しかし、使徒たちには、この話がまるで馬鹿げたことに思われて、女たちの言うことを信じなかった。

使徒達は信じなかったのです。
彼女達が言う、キリストが復活された事実を受けとめようとはしませんでした。
なぜなら復活は馬鹿げたことだと思ったからです。
そんな話あるか、死人が甦るなんてありえるか、と信じてもらえなかったのです。
そう、私たちがキリストの復活の話を人々に宣べ伝えても、馬鹿げた話、愚かな話だと批判されることがあるのです。

キリスト教の福音、良い知らせとはなんでしょうか。
それはキリストが十字架にかかり、そしてその後甦られたこと、復活されたことです。
これが福音です。
しかしこれは多くの人にとって喜ばしい知らせではないのです。
むしろ愚かな話、馬鹿げた話であると。
人は死ぬ、、、それが当たり前のこと。それに逆らう復活なんてありえないではないか。こんなこと信じられるわけない、、、このように多くの人は思うのです。

ある牧師が、福音を伝えた時に未信者の方がする反応というのを紹介していました。
「キリストの十字架の死、私たちの罪の身代わりとなって死なれることはまだ分かる、理解できる。
十字架にキリストの愛があることはなんとなく分かる。
でも、確実に死んだ人がまた甦るって、そんな話信じられないよ」
このように、十字架ならまだ分かるけど、復活は信じられないよと言う人が多いと言うのです。
私はこの気持ちがなんとなく分かる気がするのです。

日本の福音派と呼ばれている教会は、今まで十字架の愛を非常に強調してきました。
あなたのために死なられた方がいる、というメッセージを何度も何度も聞くのです。
それによって私たちはキリストの十字架を通して、自分がどれだけキリストに、そして神に愛されているかというのが分かり、そこから信仰を持ち始める人が多かったと思います。
もちろんこれはこれでとても良いことだと思います。
しかし復活はというと、どうもピンとこない。
確かに聖書に書いてあるように復活はあったかもしれない。
でもこの復活が自分にとってどのような意味を持つかはいまいちピンとこない、と。
私は救われた後長年、このような復活が今いち分からない感覚がありました。

しかし、私が年を重ねていく中で、親や親族、また友人の死を身近に経験することを通して、この復活への希望が少しずつ分かってきたように思います。
人は死ぬ。
誰でも確実にいつか死ぬ。
この死というのはどんな人であっても、、、それはどんなに頭が良くて優秀でも、偉大な功績を残した人でも、いい人でもやがて死ぬ。
コツコツ歩いてきた道が急に閉ざされるのです。
どんなに良い人生を歩んできても、やがて自分が歩んできた道が切れてしまうことに気づく時、途方にくれるのです。
自分の人生がやがていつか終わるなら、今一生懸命生きている事に何の意味があるだろうか。
愛する人の人生もやがて死んで終わるなら、一体お互いに楽しく付き合っていくことに何の意味があるのか、と。

しかしそこでこそ、キリストの復活というの事実が、死によって途切れる自分の道に光を与えて下さることを知るのです。
私が今歩んでいるこの道の先は、いずれ終わるのでは無い、と。
死という大きな岩が自分の道に塞がり、もうこれ以上歩くことができなくなって途方にくれているところに、キリストがこの死という岩を打ち砕いて下さった。
私が歩む道に、続きを与えてくださるお方がいる、先立って、道を備えてくださるお方がいる、と。

周りからは死人が復活する?そんなのは馬鹿げた話だと思われるかもしれません。
そんなことを信じることは非科学的だと思われるかもしれない。
しかしそれでも聖書は言うのです。墓は空っぽであったと。
空っぽの墓、そこにはもう、墓という死の場所にキリストがいないことを意味します。
死がある場所に、もうキリストはいない。
なぜなら死を打ち破って復活されたから。
罪ある私たちにとっては死は当たり前、、、それに対して、その常識を神は打ち破られたのです。
ひっくり返えされたのです。
だからもう私たちは、自分たちの歩む道を閉ざにくる死に対して途方にくれる必要はもう無いのです。
キリストが死に打ち勝った、その力で私たちを永遠へ続く道を備えて下さったから。

この死に対する勝利の希望を持って生きていくことができる、、、これがキリスト者の生き方です。

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結語 共同体 神の語りかけ
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 24章 06節
あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられた頃、お話しになったことを思い出しなさい。

今日は復活をテーマに3つのポイントで見てきました。
1つめは、復活の知らせとは、途方にくれた人たちの元に来る
2つめは、復活とは、神の約束を思い起こすこと
3つめは、復活の知らせを、皆に知らせていく、ということです。

今日もキリストは私たちに言われます。
「私は約束した通り甦った。死を打ち破った。
そしてあなた達は私と同じ復活の命によって、これからもずっと共に歩んでいこう」と。

だから私たち教会は、キリストが復活されたことを思い起こし、私たちもこの復活の命に預かることを信じながら、キリストのこの復活の知らせを一人でも多くの人に告げ知らせていこうではありませんか。

祈ります。
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祈り
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天のお父様、私たちは、日々の問題の中で、あなたの希望の約束の言葉をすぐに忘れ、途方にくれてしまう弱い者です。
どうぞあなたの約束の御言葉を思い起こさせて下さい。
そしてあなたの御言葉通り、キリストが甦られたこと、今日も生きて私たちと共におられることを改めて信じていくことができますように。

そしてこの復活の事実を告げ知らせていく者として私たち教会を用いて下さい。

イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。


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