連続対談「私的占領、絵画の論理」について。その28 「魂の所在」

前回の続き。11月20日に及川さんをお呼びする対談企画、目前に迫ってまいりました。ぜひご予約を。

連続対談シリーズ「私的占領、絵画の論理」
第五回「絵画における人のかたちと外部」─及川聡子─

氷や煙、といった「無生物」を長年描いてきた及川さんが、しかし数年前から人物を描くようになった、このポイントが興味深いのですが、例えば氷や煙を描いていた頃、及川さんは「うさぎ」の絵を描いています。

絹福完成

ただ、このうさぎの絵は、展示会場では周辺的な場所に置かれていました。大きさも小さいものが多かった記憶があります。それが、先だっての三人展「三叉景」展では、動物あるいは生き物を配した作品が、堂々と中心に置かれるようになりました。このブログの最初に掲載した(「私的占領、絵画の論理」の告知ページにもある)作品には、猫がいましたね。

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この猫が、レオナルド・ダ・ヴィンチの《岩窟の聖母》の、天使あるいは幼子イエスに相当する位置にいることはすでに指摘済です。これは、案外重要な意味があるのかもしれません。猫といえばSNSでフォロワー増加手法の最右翼ですが、及川さんの作品ではけして「人気取り」で猫が配されたのではない、宗教画における天使と同程度に重要な意味があるのだろうと、まずは仮定してみましょう。

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登場するのが3回目のこの作品でも、様々な生物が描かれています。そしてその生き物が非常に重要な位置にいます。なんかもうゴーギャンの晩年の絵みたいです。

無題

ゴーギャン《犬のいる風景》1903

本筋と関係ないですが、今、三菱一号館美術館で開催中の「イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜ーモネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーガン展」に出ているこのゴーギャン(最近はゴーガンて表記するんですか?)の作品はすごいです。僕はかつてここまで「空虚」「虚無」を完全に描ききった絵画を見たことがありません。現実的に、なかなかイスラエル博物館の所蔵品を見る機会は難しいので、「なんだよ名画展かよ」と言わずに見ておくことをおすすめします。

閑話休題。及川さんの絵において、なんていうんでしょう、人物が、植物や爬虫類とかさなりながら繋がっている、そういう主題性が読み取れます。人間を含めた存在の全般への視線を直感するのです。このことは、及川さんの、さらに別の側面を確認すると了解可能になりそうです。

次女

はい。びっくりしますよね。僕もびっくりしました。及川さんは人形作家でもあります。いったいどんだけ多面的な人なんでしょう。

「ひとの似姿」としての人形については、前々回に名前を出した押井守監督のア二メーション映画「攻殻機動隊」の続編「イノセンス」が思い浮かびます。ここでアニメーション映画が出てきたのは全然偶然ではなくて、アニメーションの語源でもある「アニマ」を検討してみましょう。押井守監督自身、端的に自身の扱うメディウムについて考えたところから「人形」という主題を引き出したのだと思います。ネットで調べれば平凡社「世界大百科事典」の以下の項目が出てきます。

本来はラテン語で〈魂〉を意味する語。スイスの精神医学者ユングが分析心理学における用語として用い,現在ではその意味で使用されることが多い。ユングは夢分析の際に,男性の患者の夢に多く特徴的な女性像が出現することに注目して,そのような女性像の元型が,男性たちの普遍的無意識内に存在すると仮定し,それをアニマと名づけた。女性の場合は夢に男性像が現れ,その元型がアニムスAnimus(アニマの男性形)である。男性も女性も外的には社会に承認されるためのいわゆる男らしいとか女らしいというペルソナ(〈仮面〉を意味する語)をつけているが,内的にはその逆のアニマ(アニムス)のはたらきによって補償されている。

もういろんなことが繋がりすぎて怖いくらいなのですが、さきほどの、猫の見つめる人物像は、はっきりと、上記の「アニマ」の説明との関連性を頭にいれておくことが有意義なように思います。

魂。僕は絵画なり美術作品を、過剰に「主題」だけで見る・語ることに抵抗があるのですが、及川聡子という作家の作品を論じるときに、この主題性を外すことは、むしろ「逃げ」に繋がるようにも思うのです。というよりも、及川さんの造形的な構造は、絵画であれ、彫刻であれ、人形であれ、あくまでこの「魂の所在」を探求していくプロセスとして把握されていいのではないでしょうか。このとき、近代的な枠組みを超えてキリスト教世界、さらに古典古代までを視界におさめる、ある連続した認識が浮上してくる。単に近代性を「外す」「降ろす」のではなく、その古層にあるものまで認識を掘り進めていく。

近代の古層に、ルネサンスを経由した古典古代が埋め込まれている、これは建築家コーリン・ロウが、近代建築の巨匠コルビジェと16世紀の建築家アンドレーア・パッラーディオ(古代ローマ建築を参照した)の共通項を見出した「理想的ヴィラの数学」を想起させます。もちろん及川さんを建築(史)にまで無理に結びつける意図はないし、過度な及川聡子という作家の拡張は誤読しか呼びこまないとは思いますが、しかし、少なくともそのくらいの参照項は脳裏に描いてみるに値する作家であることは、間違いないと思うのです。(続く)

※「私的占領、絵画の論理」は要予約です。関心ある方はこちらへ。


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