連続対談「私的占領、絵画の論理」について。その25「美しさが構造から出来上がっていくことについて」

美しい画面の構築が印象的な及川聡子さんのお話を伺う機会が、ようやく来ました。

連続対談シリーズ「私的占領、絵画の論理」
第五回「絵画における人のかたちと外部」─及川聡子─

僕の「一人組立」と美術家のNPO法人であるART TRACEの共同企画、画家の方々との連続対談「私的占領、絵画の論理」は、なんと前回から1年!の間隔をあけて第五回の開催にこぎつけます。きたる11月20日(土)の19:30から、両国ART TRACE GALLERYにて。要予約。

今日からまた、及川さんのお話の前に、僕なりの及川さんの絵に対する考えなどをブログに書いていきたいと思います。

及川さんは1970年宮城県仙台市生まれ、1993年に東京造形大学造形学部美術学科を卒業され、1995年に東京学芸大学大学院の教育学研究科修士課程修了されています。2003年には文化庁新進芸術家国内研修員にもなられています。

展覧会も多数されていますが、2008年の上野の森美術館でのVOCA2008、2012年の徳島県立近代美術館での「墨と紙が生み出す美の世界展」に参加されていて、大きな個展としては2019年の新宿中村屋美術館での及川聡子展「光の萌(きざし)」などがありました。

まぁ、論より証拠で、及川さんが先ごろ参加された三人展「三叉景」(ギャラリー和田)出品作の画像を御覧ください。

画像1

洗練された日本画の技法で描かれた作品です。僕がこれまで「私的占領、絵画の論理」でお話を伺ってきた作家さんとは、ある意味でまったく「路線」が異なっているように思われるかもしれません。

しかしです。冒頭で「美しい画面」と書きましたが、及川さんの作品には、奥に構造的な強さがあると思うのですね。いわゆる工芸的な絵肌の仕上げだけで絵が出来ていない。

うーん、ちょっと言葉が粗いですかね。絵の表面に氷の結晶のような、精緻な骨組みがあって、それが及川さんにしか掴めない美しさになっているのかもしれない。こう、なんと言ったらいいのでしょうか。強靭な繊細、ともいうべき絵画空間を構築している。そう思います。僕は以前及川さんの作品について二度ほどブログを書いているのですが、

半分だけ見え隠れする光景−及川聡子展「薄氷/水焔」
及川聡子の「光」と「音楽」の降り来たり

及川さんの作品を見ていると、どうしてもジョージア・オキーフやフランク・ステラ、ザハ・ハディドといった、いわゆる「日本画」の問題圏から距離のある名前が想起されます。ごく簡単に言って、及川作品には日本(画)だけでなくヨーロッパやアメリカ、中東まで含めた幅広いインスピレーションが湧いてきます。

今回掲載した作品でも、画面中央の人物のまなざしに、レオナルド・ダ・ヴィンチの影響を発見することは、それほど難しくはないはずです。そして、そのことに気が付きさえすれば、この作品が寝具と花に囲まれた「包まれる」空間を持っている──レオナルド・ダ・ヴィンチの《岩窟の聖母》を思い出させることに、思い至るはずです。

画像2

レオナルド・ダ・ヴィンチ《岩窟の聖母》1483-86年(ルーブル美術館)

形式的な差異は、縦構図か横構図か、などといったことまで含めいくらでもいえる。しかし例えばレオナルドが天使あるいは幼子イエスを描いたところに及川さんが猫を置いている、といったように「変換構造」を見出したほうがよほど面白く見えてくるでしょう。つまり、及川さんの作品の骨格、重層性には、地理的広がりだけでなく歴史的なものも含まれている。

これは及川さんも隠されていないので書いていいことだと思いますが、もともとはカトリックだった及川さんは、ある契機によって東方正教(オーソドクス)に改宗されました。こういった、作家の精神的なバックグラウンドが作品にはっきりとした基礎を与えていることは事実だと思います。僕は先ほどもあげた2019年の中村屋美術館での「光の萌(きざし)」展について書いたブログで、及川作品が持つ超越性への意思、絵画が描きえないものを降り来たりさせる場になろうとする、その意思について考えていました。

しかしです。ここにきて及川さんは明らかに「人」のいる場所に戻ってきています。かつては氷や煙といった、形をなさない、なしずらい対象に執拗に形を与えていた及川聡子という画家は、明確に「人」を描き始めました。いわば超越性から世俗へと及川さん自身が「降り来たった」のです。ここが今回の「私的占領、絵画の論理」の出発点です。

近代という時代は「神を殺し」、世界の超越性を「人間」からさらに「個人」の大きさにまで縮減することで、かつては外部から与えられた倫理性を自分の内的規律に置き換え、一人で自由意志に基づき自己完結して死ぬ(あとにはなにも残らない)。こういったモデルによって駆動してきました。モダニティにおいて絵画、あるいは美術が果たした仕事は大きく、偉大でもありますが、同時にこういったモデルに対する反動もまた大きな美術の潮流となっています。しかし、一般に近代というエンジンの恐ろしいところは(これは「資本」の恐ろしさと平行していますが)、そのような「近代批判」自体が近代を強化し前に進めていくところにあります。(続く)

※「私的占領、絵画の論理」は要予約です。関心ある方はこちらへ。


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