連続対談「私的占領、絵画の論理」について。その26 「私達は、芸術の歴史の中でどこにいるのか(いないのか)」
前回の続き。11月20日開催の、画家・及川聡子さんにお話を伺う対談企画
連続対談シリーズ「私的占領、絵画の論理」
第五回「絵画における人のかたちと外部」─及川聡子─
で検討したい問題について、つらつらと書いていきます。美術は、たいへん大雑把に考えると、人間が自分の運命を決めている(とそれぞれの時代に考えた)主題について描いてきました。太古は動物に表象されるような「世界・宇宙」です。ラスコー壁画が有名ですね。
ラスコーの洞窟壁画 紀元前15000年頃?
次に、「神」あるいは「仏」といった、超越的な存在が描かれるようになります。
法隆寺金堂壁画(6世紀頃)(焼失前の状態)
ただ、超越的な存在は「描けるのか?」「描いていいのか?」という問いもはらんでいます。ここが面白いところですが、イスラムの表象はこれが徹底しています。
やがて、世界が世俗化してくると、王や領主が描かれます。
藤原隆信派(?)《伝源頼朝像》1205(?)
ベラスケス《フェリペ4世 》1653-56
そして近代社会がやってきて、市民が描かれるようになります。
マネ《テュイルリー公園の音楽会》1862
木村荘八《牛肉店帳場》1919
階級としての市民は個人へと、さらに個人の知覚レベルへまで解体されます。
岸田劉生《椿君に贈る自画像》1914
マチス《水辺の日本女性》1905
マチスやばいですね。
無論、こんな単純かつ直線的な美術の流れは、話の都合上のフィクション(物語)です。が、超ざっくりした展開の把握モデルとしては、そこそこ機能すると思います。
個人すら解体される、というのはどういうことでしょう。例えば去年の自分と今年の自分が異なっている、みたいなのは誰でも実感としてあります。これを更に徹底して、さっきの自分と今の自分は、と問い詰めていくと、「自分」は解体される。時間だけでなく、左手は自分なのか(利き腕でないと自分の思う通りに動かない)、コンタクトレンズやエクステや義足は自分なのか、ツイッターのログのほうが自分ではないか? みたいなものまで分解してゆく──押井守監督の《攻殻機動隊》みたいですが──、そういうところまで話は行ってしまいます。
もっと環境側に目を移せば、経済や商品、技術が「自分」を決定しているんじゃないか、いやそもそも「自分」なんてないよね、概念や関係があるだけだよね、という話も当然出ます。ポップアートやメディアアート、コンセプチュアルアート、観客参加のプロジェクトやインスタレーションとかになっていくわけです。
こうやって、要素を分解していく傾向を分析的、と呼ぶとして、この分析性がどんづまりまで来ているのはおおよそ美術に関わっている人なら予感をしていると思うのですが、ではここで踵をかえして「上へ」「総合的」に美術を構築していくのは、非常に難しい。なまじ今まで真面目に解体してきてしまったので、下手な総合はトンデモになってしまいます。
下手な総合の例(ボルタンスキー展の画像検索画面)
今でも懸命に、残っている要素を、ほとんど素粒子レベルまで分解しているアーティストはいて、これはもう理論物理学なみに洗練された(そしてときどきトンデモにもなりそうな)成果を生み出しています。が、どこかでもう無理が感じられている。僕は以前こんなツイートをしましたがいろんな意味できびしいわけです。近代は。
でも、近代は、簡単に降りられない。「大衆社会」に傷ついてしまった繊細なアーティストや学者さんの一部はエリートが安定して偉くいられた「中世にもどろう」みたいなことをぽろりと言ったり思ったりしてしまいますが、言うまでもなく整然と階層化された中世のほとんどは、暴力と差別と死の社会です。大衆のなかでエリートに確率的になりえたアーティストや学者さんも、世界が中世化すればおよそ全員、秩序の上層にはいけずに暴力と差別と死の犠牲者になるのは自明です(おそらく真っ先に火にくべられます)(もうくべられつつある?)。
この困難をどう「生きる」のか。下への分析的「進歩」でも上への総合的「回収」でもない、いわば「斜め」の線の引き方を、鋭敏な一部の人は模索し始めていると僕は思うのですが、少なくとも及川さんは、そのような線の模索に手をかけている作家だと僕は思っています。というよりも、そういう予感のする作家さんを「私的占領、絵画の論理」ではお呼びしている。改めて、及川さんの作品を見てみましょう。
ほとんど顕微鏡のプレパラートの上で微生物を解剖するかのような「分析性」の中に、しかしそれが組み合わさってある「環世界」を建築してゆくような上昇性が忍び込んでいます。技術的にはまったく新しくない、というよりもほとんど反動的(もしそう言いたい人がいるなら「保守的」)なものですが、この「古さ」が、どこかで未来的なものに接続している、そういった予兆に見える。
とはいえ、傾向としてはこの時期の及川さんの絵は、分析性に軸足がおかれたものだったように思えます。その意味で、近代以後の美術家としてまっとうな作家性に基づいていた。こういった絵画を描いていた及川さんを僕はとても良い作家だと思っていたのですが、その及川さんが、ちょっと違う絵を描くようになっています。
僕の理解では、これは「分析」を踏まえて「総合」のほうに軸が移ってきている。マチスだって、様々な試行錯誤の中で、構想画といえるような方に足を踏み出したのですが、及川さんもまた、及川さんなりの構想画がインスピレーションされているのではないか。(続く)
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