連続対談「私的占領、絵画の論理」について。その2「絵」はだれのものか?(だいたい「商業的」ってなんだよ、絵画は商品じゃないのかよ)

前回からの続き。20日に開催予定の連続対談「私的占領、絵画の論理」第一回

第一回「絵画の「質」とは何か」 ─ 五月女哲平 ─

にお呼びする、画家の五月女哲平さんからの問いかけ

「現在、「質」というような、共通の価値観を踏み台にするようなものは前提にできないのではないか(大意)。」

を考えます。

「質」という言葉に、絵を志す者が出会うのは、美術大学やそこに入るための美術予備校で、と僕は書きました。これは言い換えれば、「学校」という近代的な学習過程で「質」という言葉が、絵を学ぶ人々にインストールされていることになります。五月女さんが言っているのは、そのような枠組み(フレーム)が、必ずしも通用しない状況があるのではないか?ということではないでしょうか。

むろん、今でも美術予備校や美術専門学校、美術大学は存在して「近代的教育」を多数の学生にインストールしています。さらに言えば、画家やデザイナー、イラストレーターだけでなく、キュレーターや学芸員、ギャラリスト、美術研究者といった美術にかかわる「専門家」も、一般にこの「近代的学習過程」を経て世に送り出されます。今までは、そのような「近代性」の枠組み(フレーム)の内部で「絵画」の「質」が判断されてきました。

ところが、美術館やギャラリーを訪れるのはそのような「専門家」だけではありません。というよりもむしろ、美術館やギャラリーを訪れ、入場料や作品売買を通して「美術の世界」を経済的に支えているのは、明らかに非-専門家です。美術についての「近代的学習過程」がインストールされていない非-専門家が支える専門性。このギャップは、今、美術の世界だけでなくあらゆるジャンル、あらゆる専門領域で噴出しています。

この流れに鋭敏な人々は、美術の世界で、確実に増えています。むしろ、専門的に美術について考えるとき、暗に西洋の(白人男性による)美術を背景に構築されている「美術史」を批判的に再検討する中で、専門家こそが美術の「近代性」に批判的になったりします。そんな状況下で、専門家においても「マジックワード」的な扱いである「質」という言葉を、簡単に使うのはいかがなものか、という疑問が、五月女さんからは発せられているように、僕には感じられます。

では、専門家/非専門家をつなげるプラットフォームとはなんでしょう。前回の記事で、五月女さんのお仕事について僕が書いた

「あれだけ「質」の高い絵画を制作していて、しかも専門的な評価も得ながら、そういった「商業的」なお仕事をされる」

という記述を読んで「ここおかしくないか?」と引っ掛かった方は鋭敏です。「絵画」と「商業的」なるものが分離されている。これは間違いです。むしろ、近代絵画の本義は、絵画芸術がそのまま商品であることにあるとも言えます。

ややおおざっぱな書き方になりますが、かつて、絵画は工芸品や建築──中世以後は、特権的な場としての教会建築──の「表面」に描かれていました。

上記リンクはヨーロッパの例で、アッシジの教会に描かれたジオットによるフレスコ画ですが、ルネサンスを経て時代が15世紀末のヴェネツィア派になると、絵が建築から分離します。そう、キャンバス絵画の隆盛です。木材の枠やパネルに張られた布に、油絵具で描かれた絵画は、自在に持ち運べるものになりました。時代はまさに大航海の時代です。木材とキャンバス(帆布)という、絵の材料が「船」の材料と近似であることを僕はかつてある方から学びましたが、これも象徴的です。そう、絵画は近世から近代にかけて、文字通り「流通」する「商品」になりました。

「近代的訓練」に基づく「質」の学習が、美術の専門家と非-専門家を分けたとして、しかし「商品」は、両者を区別しません。そして、これが「商品」の凄い(おそろしい)ところなのですが、「商品の質」については、現代の消費社会に生きるほとんどの人が「訓練」を十分積んでいるのです。

では、五月女さんは、絵画の「質」を放棄して、商品の「質」を磨いているのでしょうか。当然違います。何度でもいいますが、五月女さんの絵画の「質」は、商品性“だけ”に還元されない、言い換えれば交換不可能な地点に明らかに触れています。注意しなければいけないのは、五月女さんは、絵画(美術)の「専門性」の内と外の空気を呼吸させる、不思議なカギを持っているのです。そのことは、なにも五月女さんの「活動」ではなく「作品」を分析すると十分理解できます(続く)。

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