連続対談「私的占領、絵画の論理」について。その27 「及川さんの絵画には彫刻が埋め込まれている?」

前回の続き。11月20日に及川さんをお呼びする対談企画はもうすぐです!

連続対談シリーズ「私的占領、絵画の論理」
第五回「絵画における人のかたちと外部」─及川聡子─

ご予約お待ちしています。

及川聡子さんが描き始めた──それが及川さんなりの、ある「構想画」への一歩目ではないかと僕は思っているのですが──人物の表現、そのキーになるのは“彫刻性”です。日本画的なるもの、ではないのですね。もう一度、及川さんの人物像を見てみましょう。

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とくに頭部の表現に注目してください。これはもう、徹頭徹尾日本画的ではない。日本画における正統的な頭部表現というのはこういうものです。

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上村松園《待月》 1934

ごく簡単に言って、平面的です。いうまでもなく「だからだめだ」という話ではありませんよ。ただ、及川さんの人物画は、骨格としてこっちに近い。

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ジャコメッティ《ディエゴ》1959

ジャコメッティは、人の頭部を、ほとんど油絵の具でモデリングしているような、特異な絵を描きますけれど、及川さんの人体の把握はどう見ても上村松園よりジャコメッティ側です。センスとしては、もうこういう感じです。

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コロンナのヴィーナス (ローマ時代の模刻)

オリジナルは古代ギリシャの彫刻です。僕が及川さんの芸術家としての資質をさして「ユーラシア的」と考えるのは、こういった空間意識と歴史性(これは前々回も言いましたね)をさしてのことですが、この及川さんの彫刻性は、ちゃんと現実的な裏付けがあります。端的に、及川さんは彫刻の基礎的な技術を持っている。

アナスタシア塑像

なんとこれ、及川さんから直接メール頂いた、及川さんが製作中の塑像の写真です。見ればわかるように、生半可な「彫刻力」ではありません。相当な訓練を経ないとこういう古典的な端正さをもった彫刻は作れない。実際、2019年の新宿中村屋美術館での個展の際は、首像が1点、展示されていました。

これまた隠されていない事実ですが、及川聡子さんのお父様は彫刻家の及川茂さんです。高村光雲に連なる正統的な系譜にいらっしゃる及川茂さんの影響は、無論及川聡子さんに色濃くあると思います。ただ、それだけで及川さんの空間造形に関する資質と技術、僕が感じるところの「ユーラシア性」は説明がつかないでしょう。実際、及川さんの絵画における空間性は、及川さんが独自に掴み取ってきたものであることは疑いえません。もう一度、以前の及川さんの作品画像を見てみましょう。

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この、奥と手前が少しだけ前後する空間構成、彫刻的に見れば何が出てくるでしょう。

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パルテノン神殿のフリーズ 紀元前440?

浅浮き彫り、レリーフですね。美術における空間表象の問題を、歴史性に基づき原理的かつ形式的に著述した本に、ヒルデブラント著『造形芸術における形の問題』(加藤哲弘訳、中央公論美術出版)があります。けして読みやすい本ではないですが、美術作家であれば一度は目を通しておいていい本です。ちょっと引用してみましょう。

 じつは、いまここで述べた普遍的な芸術の表象方式は、ギリシャ美術によく見られる浮彫り風の表象方式以外のなにものでもない。
 この浮彫り表象は、面の上の動きと奥行方向の動きの関係、つまり一、二次元と三次元との関係をきわだたせて示す。浮彫り風に表象すれば、わたしたちと自然とは、自然をただながめているだけのときよりも、確かな関係で結ばれることになるのである。つまり、目に見える空間とわたしたちとの関係についての普遍的な法則は、浮彫り表象を通してはじめて芸術のなかに定着する。浮彫り表象を通してはじめて、自然は、わたしたちの視覚表象のために創造されることになるのである。

あまり大げさな言い方をするつもりもないのですが、及川さんはその造形言語を獲得するプロセスにおいて、ほとんど人類史的な経過を反復しているようにも見えます。彫刻家を父にもち、日本画の技術を習得しながら、しかしその空間の構築のあり方において、ヒルデブラントをなぞるような様相すら見せる。このヒルデブラントが画家ではなく彫刻家であることも考え合わせれば、及川さんのもつ「武器」の射程距離が、相当なものであることが想像できる。正直に言えば、今どきこんな根底的な訓練の積み重ねをしているアーティストというのは、反動を通り越して反時代的でしょう。車輪の再発明という言葉がありますが、芸術の再発明、みたいなことを黙々とやっているのが及川さんかもしれないのです。

で、単に美術史を反復しているだけならそれまでなのだと思うのですが、ここまで見たように、及川さんは確実にあるビジョンに向けて歩みを進めているように見えます。それがもっとも現れているのが人物像なのだと思うのですが、では「人間主義者」に及川さんがなったのかと言えば、多分そうではないのではないかと、僕は想像します。及川さんの絵画作品には一般的な意味でのヒューマンな感じがない。むしろ、日常的な感覚から言えば非-人間的な「冷たい」感触もある。冷たい、が言い過ぎなら「温度が低い」と言ってもいい。

じゃ、この感覚はどこにつながっているんでしょうか。(続く)

※「私的占領、絵画の論理」は要予約です。関心ある方はこちらへ。

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