連続対談「私的占領、絵画の論理」について。その10「作品に失敗が内包されている」

有原友一さんと僕による、画家相互の対談「私的占領、絵画の論理」第二回は、いよいよ今週金曜日、6月26日の19:30に近づいてきました。場所は両国ART TRACE Galleyで要予約です。

一人組立×ART TRACE 共同企画
連続対談シリーズ「私的占領、絵画の論理」
第二回「終わらない描きについて」 ─ 有原友一 ─

前回まで、僕は「私的占領、絵画の論理」で有原友一さんと公開で話す意味について書いてきましたが、前提として僕は一貫して有原さんの作品を素晴らしいと思ってきました。当たり前ですが、関心をもてる作品の制作者でなければ対話は成立しません。僕が一番最初に有原さんの作品を見たのは2005年頃ですが、多少のスタイルの変化はあったものの、個々の作品の「良さ」への信頼は揺らいだことがありません。具体的に、有原さんの作品のどこがどう興味深いのでしょうか。

美術手帖web版にある、有原作品の画像を確認してみましょう…と書きかけて、躊躇してしまいます。僕が「私的占領、絵画の論理」でお話しをする作家の作品はすべてそうですが、画像での作品の確認は危険性が高い。実作を見ていなければなかなかわからないことが多いし、場合によっては有害です。そして有原作品はwebの画像で伝えられることが、より少ないと僕は思います。そのことを前提にして、以下の画像を見てみてください。

美術手帖web版 有原友一 個展

『untitled』と名付けられた作品は、縦長の構図に、油彩の筆触が、向かって右上から左下方向に傾きながら、波のようにならんでいます。画面下辺左1/3くらいから上変1/2まで、記号の「(」ように弧を描く短いタッチが連続し、それに向かいあうように画面向かって右サイドには「)」のようなタッチがつながっています。ただし、この各“陣営”には部分的に反対向きのタッチがまれに表れます。絵本『ウォーリーを探せ』みたいに、このイレギュラーなタッチを探すことも面白いのですが、この試みは一定の意味を持ちます。それは、この作品が、主に相互に隣り合うタッチとタッチの関係の連鎖で出来上がっていることが分かるからです。2016年の個展の情報サイトの画像の画像も見てみましょう。

Tokyo Art Beat 有原友一展

淡い、中間的な色彩を持った、短いカシューナッツのような筆触が、やはり隣り合う相互の「綱引き」のような、あるいは押し合いへしあいをしているような様子をして画面を構成していることが見えてきます。

この絵の成立過程を想像してみましょう。おそらく、ある種の恣意性も持った(この点は後でもう一度考えます)大きさのキャンバスが用意され、そこに任意のタッチが置かれます。その近傍に、最初の一筆の痕跡がもたらした「変化」を画家が観察しつつ、その観察に基づいた、次の一筆がもたらされる。それがドミノ倒しのように続いて、この絵は出来上がっているように想像されます。

ここで重要なのは、もしこの想像が合っているのであれば、有原友一さんの作品は、少なくとも書き始めの段階で、どのような作品になるのかは想定されていない、と考えられることです。ドミノ倒しは最初からドミノの配列が決まっていますが(規模が大きいほどそれは精密に設計されるでしょう)、言ってみれば有原さんの作品は多方向に多重に重なったドミノの、設計されていない連鎖が「絵」になるのかどうか、描くたびごとに賭けられている。いや、あやふやな比喩はやめましょう。一般に抽象絵画を描く人で、最終的な仕上がり予想を持たない人は一定数いますが、それでも多くの場合、ある種の保険、およそのイメージのようなものは持っています。そして、けっこうな割合で、このイメージはかなり具体的で、そこにたどり着くまでの段取りも、相当程度に決まっています。

無論、有原さんも最初からイチかバチかなわけではなく、見込みのようなものは持って仕事を始めていると思いますが、しかし、その見込みの程度が、たぶん、とても小さい。

ということは、重要な事実をもたらします。有原さんの作品には、個々に「失敗」が、あるいは失敗という言葉が正しくないなら行き詰まりが、往々にして内包されています。事実、有原友一さんの展覧会を見ることの抜きがたいスリリングさは、個別の作品において「これはかなり危なっかしいバランスで出来上がっているな」とか、「うわ、この作品は一度破綻したものをなんとか立て直したのでは」と感じることが、ちょいちょいあるのです。これが本当に面白い。

しかし、それは、不誠実な作家のだらしない作品が混じる展示とは決定的に異なります。そのような危うさを抱えたうえで、有原さんの作品の連なりは、個々の作品のタッチのつながりのように、緊張感と賭けの結果として、目に見えないのに感じられる「有原友一の価値基準」を、明確に提示します。有原さんの個展を見る、というのは、そのようなクライテリア(判断基準)を感受しに行くことに通じるのです。


ここまでで、有原さんの作品の、大きな骨格のようなものは、ある程度看取できたように思います。しかし、言ってみれば、このような制作のありようは、全く新しい、有原さん独自のものではありません。近代の抽象絵画の中で、比較可能な試みは複数あります。それでも、有原さんの作品に見られる、生々しい振動は、そういった美術史的な理解では把握できないように思います。次はその「震え」の震源地を考えてみたいと思います。

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