脱毛記17

(前回のあらすじ=脱毛の施術中に私は宇宙と一体化する)

ドシュ! 

 私は、ようやくそこにたどり着いた。

 我々は何者なのか、どこから来て、どこへ行くのか。ゴーギャンの問いは、今、東京の脱毛クリニックのベッドの上で氷解した。

 真理とは、悟ってしまえば、大したことではない。それを心の底から納得できるか、心の底から信じることができるかどうか、の違いに過ぎない。ちょうど、キリスト教徒がイエスが救世主であり、ゴルゴタの丘で刑死して三日後に復活したことを信じるように、イスラム教徒がムハンマドに下された掲示が最終的なものであると信じるように、私は、宇宙とは命であると信じる。

 ああ、そうなのだ。まさにそうなのだ。私は眼前に無限の夢中が広がるのを見る。クリニックの枕で眼球が圧迫され四方八方に星くずが飛び散っているだけなのかもしれないが、私には、それこそ私の中に宇宙があることの証左として感じられる。その星くずに焦点を合わせようとすると、それはたちどころに視界の端への消えていき、変わってまた別の光が、ふらふらと視界の中をさまよう。その光は常に私たちの視界の少し先にあるのだ。

 見ようとしている対象と、見る対象が同一の場合、どうあってもそれは焦点を結ぶことはない。私が宇宙であるとするならば、宇宙そのものを見ることができないのも当たり前のことだ。こんな所にもヒントが転がっているのだ。

ドシュ!
 
 唐突に私は涅槃教の一説を思い出す。

草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)

 草や木、土と言った無機物にも仏性(ぶっしょうと読む)があり、文字通り仏になれる(成仏)できる、という教えだ。本家のインドではなく、中国で提唱された概念で、日本では天台宗や華厳宗で強調されている。

 我々の全てが循環し、つながっているのだとすれば、草だろうと木だろうと、あるいは石ころだろうと、森羅万象全てが成仏するのは当たり前だ。なんら不思議なことではない。むしろ、何を今更、といったところだ。

 哲学者の梅原猛は世界は命であふれていると新聞のインタビューに応えていた。自宅の小さな庭を見渡すだけで、億兆の命がひしめいている、と。その時はそんなもんかな、と思っていたが、今思えば、その気持ちはよく分かる。土塊にも仏性があるのだ。そして、それもいつか、私の身体の一部として、取り込まれるべき存在なのだ。そして、私もいつか、その土塊に戻るのだ。

 ごらん、世界は美しい。ありがとう、そして、さようなら。嗚呼、意識が宇宙と一体化していく……。
 
「……さん、終わりましたよ」

 私は、その声でハッと我にかえった。どれくらい時間が経ったのだろうか、いつの間にか施術は終わっていた。私は全裸でベッドにうつぶせになったまま、意識を失っていたらしい。枕に顔を押しつけていたせいか、どうにも目が見えづらい。頭もぼんやりとしている。うまく、現実に戻ってきていないような感じがする。

 看護師は、目をしばたたかせている私の枕元に座り、にっこりと笑って言った。

「赤くなっているので、今日1日はお風呂には入らず、シャワーで身体を流すだけにして下さい。激しい運動もしない方が良いですね。肌にダメージがありますので、化粧水やクリームで保湿をして下さい。次回ですが、毛が生え替わるまで2か月ほどかかりますので、予約は早くても2か月後になります。何かご質問はありますか?」

「いや、大丈夫です。ありがとうございます」

どうも、声も出しづらい。何となく、自分の意思と体の反応に若干のズレが生じているようだ。遅延が生じているというのか、どうもぎこちない。

「では、今日の施術はここまでになります。着替えられたら、お呼び下さい。出口までご案内致しますので」

 そう言って、看護師は立ち上がって一礼すると、シャッとカーテンを閉めて、外へと消えていった。私の鼓膜には、ドシュッ!という、あの音が繰り返し響いていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?