脱毛記15

(前回のあらすじ=医療脱毛を訪れた私は、施術中に神について思索を深める)

ドシュ! 

 ここで私は、キリスト教における三位一体を想起する。キリストの神性について、キリストは神であり、神の子であり、聖霊である、とする概念だ。極めて難解だが、これも地球と我が関係性を見れば、一瞬で理解ができる。地球を神とするならば、キリストと神は単に見え方の違いにすぎない。

 聖霊がいささかややこしいが、これは、キリスト=神が及ぼす様々な影響のことであろう。GOD=神は創造神であり、キリストであり、そして、影響なのだ。全ては再帰しているのだ。

ドシュ! 

 再び私は釈迦牟尼について考える。釈迦が説いたのは、輪廻からの離脱=悟りである。その悟りとはなにか。私は、全ての物理法則を理解しきることと定義する。つまり、ありとあらゆる分子や原子からなる森羅万象の動きを寸分の狂いもなく未来永劫把握しきることができれば、もはやそこには欲望も苦しみもない世界しか存在しない。

 全てが分かっているならば、苦しむことはなにもない。全ての苦しみは人間関係から生じると言ったのは心理学者のアドラーだが、それも極限すれば、人間の感情をつかさどる電子の動きの表象に過ぎない。

 例えば、隣人がひどく不快な発言をしたとしよう。それによって、あなたの心は深く傷つくかも知れない。しかし、その発言も、単に空気振動が鼓膜を振るわせて、電気信号に変えられ、脳内で意味に変換されただけに過ぎない。そして、その言葉の理解やら、耳での認識やら、心の動きやら、ありとあらゆるものは、単なる電気信号であり、分子の揺らぎなのだ。(そう考えれば腹も立たないはずなのだが、実際はそうはいかないので、修行が必要なのである)

 釈尊は、全ての分子、原子の動きを理解した。とすれば、あなたが今感じている苦しみも全て理解しているだろう。そこには、時間もなければ、空間もない。あらゆる原子の揺らぎがあるだけである。それを読み取ることができるのは、現在にいたるまで釈尊ただ一人である。

ドシュ!

 そう考えると、様々な形の仏が存在することがよく分かる。大日如来を頂点とする密教界だが、博物館でたまに行われる宝物展を見ると、実に様々な仏が存在している。仏典の説明では、これらの仏=如来は、釈迦が様々な時代に取った様々な姿を現しているとされる。この世の全ては原子の揺らぎなので、別々の時代に同じに釈迦が存在してもなんら問題はない。釈迦はそうした物理法則を超越した存在であるからである。

 なんとなれば、我々は文字通り釈迦の中にいるのかもしれない。ちょうど、西遊記の孫悟空が釈迦の手のひらから出られなかったのと同じように、見る者に応じて釈迦はその姿を変えるのだ。

 いや、見る者の網膜や鼓膜やその他様々の感覚器官が釈迦をそう捉えただけなので、実態としての釈迦はまったく違う姿をしているのかもしれない。だとすれば、我々がそう見ていないだけで、世の中の色々な所に仏はいるのかもしれない。例えば、巨大な石に見えるものが、実は仏が人にそのように見せているだけかもしれない。だんだんと思考がアニミズム的な話に飛躍していく。

 ドシュ! 

 私はここで、釈迦と「神=キリスト」との思わぬ相似に気付く。どちらも、見え方の問題なのかもしれない。中東の民には釈迦はキリストとして見え、古代インドの民には、それは釈迦として見えただけなのかもしれない。

 そうなると、もはや釈迦やキリストという名称に意味がなくなる。それはただ、見え方の違いなのだから。同じものを違う呼び名で呼んでいるだけにすぎない。どうしても、人類は差別化を図りたい生き物だから、釈迦とキリストの違いばかり強調しがちだが、本質的には全く同じものだ。全てを理解した釈迦と、全てを想像した神と、どちらが正しいかを比較しても何の意味もない。

 自らが創造した世界ならば、自らが全てを理解できていて当然だろう。釈迦は、私が今日、このクリニックのベッドに横たわり、レーザーの波動を浴びながら、毛根を焼き尽くし、この感覚に至ることまで分かっていたのだ。いや、全ては予定されていたのだ。カルバンの予定説とは全く違った意味で、全ては必然なのだ。 

 ドシュ! 

 私は量子力学との相似について考える。極々小さな世界での量子の動きは、大きな世界とは全く異なるというあれだ。

 一度、その分野で高名な教授にその手の話を聞いたことがある。有名な二重スリット実験というヤツだ。二つの溝のどちらかを通った光子は、常識的に考えれば、その溝の正面に一本だけ跡を残すはずだが、なぜか、現れるのは波模様なのだ。

 どう考えてもおかしいが、光子はすり抜けたり、すり抜けなかったり、互いにぶつかりあったりして、波模様を作るのだ。つまり、光は、粒でもあり、波でもあるという結論が導き出されてしまう。小さな世界の集合体が大きな世界ということなのだから、(当たり前のことだが)我々も二つの存在として、二つの場所に同時に存在しえるのかもしれない。

 もしかしたら、このベッドに横たわり、レーザー攻撃を受けている私とは別に、どこかで血わき肉躍る大冒険を繰り広げている私が存在するのかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?