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「週刊金曜日」(2024年1月19日号)にモアメド・ムブガル・サール『人類の深奥に秘められた記憶』(野崎歓訳、集英社)の書評を書きました。

小説を大文字の言葉でくくることの罪深さと、そこで醸成される文学者の使命感。その狭間で煌めく、書く者の孤独。それらを見つめながら小説家として生きることの意味を掴み出す本作は、2021年にゴンクール賞を受賞した傑作長編です。

物語の中心に不在しながら、たたずむのはT・C・エリマンというセネガルにルーツを持つ架空の作家。彼は1938年に『人でなしの迷宮』を上梓すると〈黒いランボー〉と呼ばれフランスにおける文壇の寵児となるのですが、のちに様々な神話の引用が剽窃だと取り沙汰され、論争の的になりました。

以後、筆を折り、行方を眩ました彼は、謎めいたカルト作家として忘れ去られつつあります。

さて、時が経ち現代、そんなエリマンを思い出したのが、彼と同じセネガル出身で詩人に焦がれる、語り手の〈ぼく〉。文学史の教科書でその存在を知ったものの、本は入手困難なため、彼をそれ以上知る術はない。断念したまま作家となった〈ぼく〉はある日、やはり同郷の大御所作家と知り合い、彼女から稀覯本である『人でなしの迷宮』を渡されます。

ここから物語は〈エリマンが滑っていく孤独の円環に向けて〉その歩みを進ませる。エリマンとは何者だったか。彼を知る無数の声が折り重なりながら、テクストを編み上げていくわけです。

その先で、伝説の作家を探し出そうとする〈ぼく〉たちの冒険が穿つのは、エリマンが抱えていた孤独です。絶えず黒人作家として視線を注がれ、アフリカの大地の代弁者とみなされ続けた、エリマンの心のうちに光る孤独。それは文学にとって創造のための源泉のような場所である。この作品が〈滑っていく〉のはまさにそのような地点なのです。

本作には、極めて純粋で、どこか青臭ささすら感じさせるほどの文学に対する信念が、波打っています。作中、新進気鋭の小説家である〈ぼく〉が、これからの文学を担ういくつかの同志たちとパリの文壇で熱い親交を結んでいる姿が描かれます。下の一節はそんな場面での、〈ぼく〉の述懐。

だが何と言ってもぼくを彼に結びつけていたのは、われわれにとって人生の完全現実態を具現する文学への、同一の、絶望的なまでの信頼だった。文学が世界を救うなどとはまったく思っていなかった。だが、文学は世界から逃げ出さずにいるための唯一の方法だと考えていたのである

(太字引用者)

だから、つまるところ、架空の作家エリマンを追い求めるこの小説が試みようとしているのは、誰にも穢されない文学の純真な姿の探求/探究なのではないか。書評ではその視座から、この傑作長編を読んでいます。

実はエリマンにはモデルとなった作家がいるんですね。ヤンボ・ウォロゲムというマリの作家で、『暴力の義務』という作品によって知られています(日本では岡谷公二さんの訳で出ています)。やはり剽窃が問題視され、終生、孤独を抱え続けた彼が置かれた立場、あるいは、「アフリカ文学」と呼ばれる小説群の歴史については、みすず書房から刊行されているアラン・マバンク『アフリカ文学講義』(中村隆之/福島亮訳)に詳しいです。副読本としてこちらもぜひ、どうぞ。


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