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『すばる』2023年5月号に松浦寿輝『香港陥落』(講談社)の書評を書きました。

松浦寿輝の近年の大きな達成は、戦時下における日本の外地を舞台に、国家と国家の熾烈なせめぎ合いのなかで剥き出しにされた個人の生の様相を克明に描き上げたことにあるーーというのは多くの人の頷くところでしょう。

2017年の作品『名誉と恍惚』は〈そこで暮らす誰も彼もが、多かれ少なかれ、自分が何に、どこに所属しているとも確信できず不安定に漂流しつづけているといった体感を分かち合いつつ、おのおのの孤独な生の痛みを耐えている、そんな特異な場所〉である上海の共同租界を背景に、陰謀の蠢く当地のアンダーグラウンドに呑まれた芹沢一郎という男の実存的不安を活写した700ページ超の大作でした。

今回の『香港陥落』は、その隣で描かれている物語です。というのも、芹沢をはじめとする前作の登場人物が何人かでてくるからですね。この連続性は香港もまた〈おのおのの孤独な生の痛みを耐えている、そんな特異な場所〉であることを意味するわけです。

主要人物は三人。ロンドンの日本大使館での職を辞してから香港に渡り、日本語新聞の編集長となった谷尾悠介。イギリス政府直轄の香港政庁の職員から、ロイター通信社の職員に転身したブレント・リーランド。香港の貿易会社で働く中国人の黄海栄。政治的に不安定な場所で、国家に運命を握られた人間同士の友情がこの作品の主題です。

状況が動くごとに、アンバランスな立場にいる彼らの友情の不安定さが、否応なく滲出する。それでもなぜ彼らは友情を結び続けるのか。書評ではそのことを書きました。ぜひお読みください。

ちなみに松浦寿輝さんと小川哲さんの元指導教官・学生対談が文春のウェビナーにあがってて面白かったです。『地図と拳』と『名誉と恍惚』は確かにともに第二次世界大戦期の日本の外地を舞台にした大作で共通点が多いんですね。フーコーのエピステーメーやアラン・チューリングの話題など、お二人の創作の背景にある巨大な知性がどう物語に絡まっているのかをうかがわせる対談でした。

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