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雨日記 #9 雨はまた降り落ちて新しい芽を咲かす

暑い夏の日にわたしはやることがなかった。大学が夏休みに入る前にキャリーケースを持って、図書館で借りられるだけの本を借りた。長期休暇になると貸出できる冊数が増えるのだ。
 古い世界文学全集から借りた一冊にフローベールがあった。フローベールを読んで、良質な文章というのは背筋が判断するということを学んだ。いい文章に当たると頭ではなく、背筋にそっと電流のようなものが走り、思わず背筋が伸びる。

 わたしは昼少し前になると、車を出し、いつもの公園に向かう。成城石井の駐車場に車を停め、昼を買う。
 入り口から少し坂を上がったところのベンチに座り、昼食をとる。木立が気持ちのいい日陰を作っている。眼下のサッカーグラウンドを見下ろしながら。そのあとで木立のトンネルを通る。まだら模様が砂利道に落ちている。広場に出る。ほとんど人のいない公園の広場のベンチに座る。トートバッグからフローベールをとりだす。日差しを防ぐものはない。わたしはTシャツの袖をまくって日光浴する。太陽が照りつける。子供たちが遊んでいる。わたしはフローベールを読む。螺旋階段を蝶が飛ぶ。その描写を覚えている。それはやはり焦げつくような暑い夏の日のことだ。百年以上前に書かれたことで、わたしはたぶんもっと暑い東京にいるというのに、それはとても暑そうに見える。
 わたしは本を閉じ、空を見上げ、目を閉じる。わたしにはなにもないことを感じる。生まれたばかりの赤ん坊に、もし意識があるとするなら、今のわたしと同じように感じることだろう。しかしいまのわたしには世界への驚きはさほどなかった。なにも新鮮に感じない。麻痺しているのだ。こんなことを毎日繰り返していた。それはもう何回目かの真夏日でわたしは影のように一人きりだった。

 わたしは帰る前にブックオフに立ち寄り、面白そうな本がないか探す。家に帰りシャワーを浴び、ベランダに出て煙草を吸う。
 そうするともうやることがなかった。わたしは胸の内は太陽よりもよっぽど焦げついていて、熱によってできたエネルギーをどう処理していいかわからなかった。これが孤独というものか。人の心を蝕み、焦げつくような不安感をもたらすーー。わたしはこれと付き合っていかなくてはならないのだ、と思った。これを飼い慣らさなくてはならないと感じていた。
 そんなときはどうしただろう? 孤独に心を壊されないように何にすがったか。
 過去にすがった。わたしは押入れの中にあるクリアケースの大きな引き出しを開け、雑然と置かれた写真を片っ端から眺めた。幼い頃のわたしを見にいった。わたしはその頃幸せだった。はっきりといえる。そんな人はどのくらいいるだろう? 不幸な子供時代なんて、そんなものが本当にあるのだろうか。厳しく、つらい幼少期を送るなんてことが、わたしにはうまく信じられなかった。そしていま、わたしの青年時代がこうして悲惨なのは、あの楽しい幸せな子供の時代を送ったことの代償を払っているからだと思った。
 外国にも長くいたけれど、人種差別を受けたことはない。学校にはたくさんの友達がいて、お泊り付きの誕生日会に呼ばれる4人のうちの1人にもなった。誰からも愛されていて、誰からも愛情を受けていて、それが当然のことと思っていた。つまり甘やかされていたのだ。そしてわたしのそばには母がいた。母は大きく、なんでも知っていて、いて欲しいときにはすぐ駆けつけてくれた。それはもちろん子供だったわたしの勘違いなのだが、その頃のわたしはそう信じていたのだ。

 わたしの隣にはひとつ上の兄がいて、いつも気難しそうな顔でカメラを見つめ返している。隣にいるわたしの屈託のない笑顔とは遠く離れている。兄はその頃なにを考えていたのだろう。
 それがいま、わたしと兄は心が逆転しているかのようだった。活発で多くの友人に囲まれ、休日はいつも出かけて家にいなかった。わたしのほうはといえば、かつてはすっかり外に開かれていた心が内に向かい、自分の世界を深めることに忙しい。人と触れ合う機会も皆無だった。
 たぶん兄とわたしはいつかの時点で、魂の入れ替え工場のようなところでわたしたちの魂は交換されたのだ。悪戯好きのうさぎたちがわたしと兄の魂をすっかり入れ替えて、細部の配線からなにから接続し直したのだろう。
 でも、それが悪いことだとは思わない。いまいるわたしは、自分自身に満足しているとか不満を持っているとかはわからないけれど、彼女といるこの生活が好きだ。それはこのわたしでなければ手に入れることのできなかったものに違いないし、これから全力で守っていきたいと思う。誰がなんといおうと、わたしはそうしているのが幸せなのだ。

 雨が降るたびにあの頃のことを思う。そして、その日々はいまでもわたしの魂に雨となって降りおちるけれど、また新しい芽をもたらすにちがいない。

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