愚民社会は止められるか

 誰もが情報の発信者になれるという社会は、本当に理想郷なのだろうか。それは究極の民主主義社会に見えて、実は究極の愚民社会になるのではないか。(佐野眞一著『あんぽん 孫正義伝』)

 インターネットの普及とSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)による情報発信は、それらを利用する人々にとって総合的な思考力と判断力が鍛えられる人生修養の場であるはずなのだが、実際には相手の顔が見えないのをいいことに、発信者自身と相容れないものに対する攻撃性を強め、多様化する価値観を共有し合うどころか、ますます視野狭窄に陥っている。影響力の強い著名人がtwitterで何事かを呟いたら、フォロワーによって拡散されるとともにネットニュースとしてポータルサイトに掲載され、市井の人々によるアンチとシンパの対立をあおる。それは建設的な議論とは程遠く、感情先行型の罵り合いにすぎない。

 SNSや電子掲示板を拠りどころにしている人々ほど、既存メディアを嫌う傾向が強いようだが、テレビや新聞は彼らの罵詈雑言などどこ吹く風で、大企業や通販業者からの広告費で毒にも薬にもならない番組や記事を垂れ流している。それらの制作に携わる人々は既得権益を失わない程度に立ち回るから、批評家精神旺盛な市井のネット民はよりいっそう不信感を強める。とはいえ、彼らの影響力は世論を形成するほどではないから、既存メディアは主婦や高齢者をターゲットにした人畜無害なコンテンツに終始する。日本の場合、愚民社会の形成要因はネットよりも既存メディア優位に変わりはない。

 情報化社会は既得権益の埒外にある無名の才能を知るとともに、情報の発信者に到底値しない人々の不謹慎な言動にいやがうえにも向き合い、検証する作業が各人に求められている。匿名性が強く責任が生じないネット上の情報は、既存メディアよりも信用できないのは当然であって、それらの取捨選択があやふやなようならテレビや新聞に委ねるべきだ。しかし、誰もが情報を発信できるネットの万能性を過信する人々は、資本主義社会に懐柔されている既得権益者を「マスゴミ」と蔑み、対立意識を剝き出しにしている。そして、ネット上の情報発信者の知識や教養、倫理観が千差万別である以上、表現の自由が拡大解釈もしくは捻じ曲げられて不毛な諍いが起きる。

 たとえ市井の人々の不信感が強まろうと、購読部数や広告収入が落ち込まないかぎり、既存メディアは既得権益を失わないし、それらに従事している人々は特権意識を持ち続け、社会的地位の低い層、ネットでしか憂さを晴らせない人々を黙殺する。だが、民間放送局は収入の大部分を広告費で賄い、広告代理店と大手芸能プロダクションの顔色を窺いながらコンテンツを作り上げるから、横並びのクオリティに陥りやすい。しかも、制作を下請けに出してコストを抑え、既得権益を守り続けようとするから、ネット民は地団駄を踏み続ける。

 今後、ネットメディアへの広告シフトが進もうと、既存メディアもネットコンテンツを強化しているし、大企業や通販会社からの支援で既得権益を守り続けるだろう。誰もが情報の発信者になれるとはいえ、既得権益を持たざる者はネット上でしか表現活動の場はなく、親和性の高い著名人のフォロワーになってさらに思い込みを激しくし、既存メディアに依存する人々を「情報弱者」と蔑む。そして、SNSから出現したコンテンツを「自分たちがネットの力で流行らせた」と思い過ごし、それが資本主義社会とのタイアップだと知るや否や「裏切られた」と被害者意識をあらわにする。「マスゴミ」だの「情報弱者」だのと優越感に浸っていても、一次情報のソースは既存メディアからがもっぱらで、彼らは所詮、それらの上で踊らされているだけだ。

 既存メディアが愚民社会を形成しているのなら、ネットはその抑止力になりうるのか。もしそうなれば、佐野氏の主張は杞憂に終わるわけだが、無名の情報発信者がいつまでも無名でいたいはずがなく、既得権益者の仲間入りを目指す。そのためには既存メディアとの折り合いをつけなければならず、様々な制約も加わる。それを乗り越えた情報発信者は、人畜無害な既得権益者に変わり、ネット上で発揮してきた個性は鳴りを潜めるだろう。言い換えれば、ネットだからこそ既存メディアの枠に到底はまらない表現が埋もれていて、それは既得権益者が表現できない、もしくは表現できないふりをしているものであろう。

 既存メディアへの批判精神は、左右を問わずヘイトスピーチに代表されるように先鋭的で、情報発信者は自らの主義主張こそ正義だと譲らず、親和性の高い人々とだけ繋がり、対立的な人々を徹底的に攻撃するほど排他性に富んでいる。相手の顔が見えないネット上ゆえに、「カス」だの「死ね」だのと口汚い言葉が飛び交い、さらに現実社会でも脅迫や暴行などの事件に発展する。また、格差社会が進むにつれて既得権益を持つ者に対する持たざる者の嫉妬や僻みが歪んだ形で表現され、先鋭化の末に重大な刑事事件を引き起こし、被疑者への共感を示す不謹慎な人々もいる。

 老若男女を問わずネットへの依存度が高ければ高いほど、情報発信者の表現が先鋭的で排他的に陥るのなら、既存メディアと同様に愚民社会に加担するのかもしれないが、twitterで排外主義を標榜してきた不動産王が一国の大統領に成り上がる現象は、日本ではまだ見られない。たとえネット上で盛り上がりを見せようと、既存メディアを巻き込めなければ「情報弱者」からの賛同を得るどころか認知すらされない。それは排外主義者と敵対する組織や団体も同様で、それらのSNSでの共同体は市井の人々から幅広い支持が得られているわけでもなく、極めて限定的だ。

 既存メディアが資本主義社会とのバランスを保っているかぎり、ネットに対する情報の信頼性はそれらに劣り続け、一個人による発信が世論を揺れ動かすほどには至っていない。デマや陰謀論も飛び交い、それを鵜吞みにして拡散する人々が一定数いるにせよ、彼らが国家を転覆させるほどの重大な局面には導いていない。既存メディアを生活の糧とする既得権益者も、SNSはあくまでも補助的なコンテンツと位置づけ、彼らからの発信はせいぜいネットニュースに取り上げられる程度で、それらはネット上でぐだぐだと賛否の意見が飛び交う素材を提供しているだけにすぎない。

 誰でも利用できる情報発信手段ゆえ、SNSを過信するのは危険なはずなのだが、当事者たちはネットを通じて外部に主義主張や意見を発信し、見知らぬ誰かから賛同を得ようとする。既存メディアを「マスゴミ」と呼び、SNSをやらない人々を「情報弱者」と見下すのは、彼らが情報化社会のトップランナーだと思い込んでいるのかもしれないが、実際には排他的な共同体にとどまり、知識を増やしたり教養を高めたりしようともせず、大多数の「情報弱者」の目に留まらない非生産的な行為を繰り返している。既存メディアがSNSに興味を示すのは影響力が大きいとされるインフルエンサーで、彼らを利用してコンテンツを作り上げて商売に結びつける。商売にならない情報発信者は、いつまで経ってもお呼びがかからない。

 しかし、既存メディアが「SNSでは……」と市井の人々の声を引用するのは、報道機関としての取材・制作機能が弱体化していることの表れで、ネット界隈にじりじりと歩み寄っているのも世論への迎合で購読部数や視聴率を維持しようとする経営的側面が見え隠れする。権力の監視と文化の創造が存在意義とはいえ、権力者におもねってこそ広告収入が得られるし、従事者の既得権益も守られるから、今日の政治経済に対する急進的な批評は外部の有識者に丸投げするか、論じようともしない。文化は中長期視点で育てる余裕がなく、すぐに商業主義を絡めて瞬間的な儲けに走る。毒にも薬にもならない横並びのコンテンツがいっこうに減らないのは、従事者が自浄作用を起こせないからで、既得権益を絶対に手放したくないからだろう。

 既存メディアに携わる人々の既得権益は、彼らの努力と処世術の賜物だ。ネット民が嫉妬や僻みで批判を繰り返しても、持たざる者の遠吠えが続くだけだ。ただ、第四の権力を監視するうえで、ネットはその役割を担い、愚民社会の抑止力になりうるのではないか。既存メディアから垂れ流される情報のすべてが正しいわけでもなく、むしろそれらを額面どおりに受け取っている市井の人々が社会で大きな影響力となり、劇場型政治や買い占めなどの混乱を招いてきた。ネット民は彼らを「情報弱者」とみなし、既存メディアへ批判の矛先を向けるが、資本主義社会では下層に位置する弱者ばかりで、しかも印象や主観が先行しているから幅広い支持が得られない。

 ネットやSNSによる既存メディアへの批判も既存メディアのコンテンツも、もはやその多くが非生産的だ。それは日本の資本主義社会がコンプライアンスを重視し、クレームを過度に恐れるなど寛容性が失われているからで、クリエイターやタレントも本来の実力が発揮できないか、もともと能力のない人(単にコミュニケーション能力に秀でた人)でもなれてしまうのが実態ではないか。資本主義社会に従順でなければならず、そのひずみに対して真っ向から問題提起できない。既存メディア側の人々が「嫌なら見るな」と居直られるようになったのも、彼らのもどかしさの表れであると同時に、既得権益だけは守ろうとするあさましさが窺える。

 日本のネット社会は表現の自由が確保されているから、誰でも軽々しく体制批判や為政者を揶揄することができるし、様々な社会現象に対する個人的見解も発せられる。著名人の場合はアンチとシンパによる対立が局地的に発生し、ネットニュースに取り上げられたり、“炎上”騒ぎになったりもする。そもそも、既存メディアを介して表現できる立場であるにもかかわらず、各界の著名人が自らのパフォーマンス以外に個人的な主義主張や意見を発し、しかも市井の人々と同じツールを利用しているのは、彼ら自身が既存メディアのかぎられた時間と空間では満足しきれず、フォロワーを巻き込んで自らの表現力に箔をつけようとする計算高さが感じ取れる。

 誰もが情報の発信者になれることを全否定しているわけではない。ネット上に溢れる種々雑多な情報の品質を見極め、取捨選択し、多様な価値観の理解を経たうえで表現できなければ、あらぬ誤解を招き、不毛な対立を引き起こすだけだ。それは非建設的で、人々の生活を向上させるどころかよりぎすぎすさせてしまう。それなら既得権益者が幅を利かす既存メディアに一切合切頼りきるのが潔いのではないか。ネットが普及する前は誰もがそうだったわけで、ネットに慣れきっている世代から見れば不自由極まりないかもしれないが、そもそも発信するに値しない表現が山積しているからこそ、既存メディアを巻き込めず、内輪でのコミュケーションの域から脱せない。厄介なのは、内輪で盛り上がっていたはずなのが方々に拡散して混乱をきたすケースで、発信者がそれに対して軽率すぎるのが大きな原因だ。

 誰もが情報を発信できるのは、誰もが責任を負わなければいけない。ネットは匿名性に乗じて独善的で排他的になりがちなのに対し、既存メディアは既得権益者が常識や倫理を逸脱せず予定調和に収めようとする。どちらも無責任だから、ネット民は「マスゴミ」呼ばわりし、既得権益者はフォロワー以外の彼らを黙殺する。既存メディアは広告主や視聴者に配慮し、やらせ以外で常識や倫理から逸れた人々や思想を担ぎ出すリスクを冒そうとしないから、あらゆるコンテンツが社会現象に発展するほどの力を持たない。一方、ネットはそれらを茶化すことに長けているが、本質について考察するまで真剣に向き合おうとしないから、過度に期待していた人々はより孤立を深め、先鋭化していったあげく、現実社会で罪を犯したりもする。

 家族や友人、同僚などのかぎられた共同体でのSNSによる情報発信は、電話や電子メールよりもスピーディーで利便性の高いツールだが、見知らぬ第三者へとなると、根本的に相容れられない人々からの批判に非生産的な反論を繰り返すか、親和性の高い人々とだけの共同体に収まる。職場や学校では人間関係で少なからぬストレスを感じているのだから、せめてネットでは自分とは異質な者を排除して誰かと繋がりたい。現実社会での不満のはけ口をネットに求めているだけでは、従来の床屋政談や居酒屋談義の域を出ず、既存メディアを脅かすには程遠い。ネット民が「マスゴミ」と叫ぼうと、既得権益者は居座り続けるし、それなりの肩書きもあって様々なコンテンツの制作に携わっているから、「情報弱者」なる人々がどちらを信じるかとなると推して知るべしだろう。 

 第四の権力である既存メディアは、資本主義社会に決して逆らうことができない。制作現場を下請けによってコストを安く抑え、既得権益者は踏ん反り返っている。政府への監視どころか、政府に擦り寄って自らに箔をつける。世論の傾き具合に応じて、彼らは体制批判を展開するが、当事者の現場の苦労などを考慮せずに揚げ足を取っているだけにすぎない。しかし、既存メディアが毒にも薬にもならない存在だからこそ、カルトや疑似科学などネット上を局地的に賑わせているものに「情報弱者」なる人々が群がる心配はなく、社会の秩序が一応保たれている。既存メディアの数少ない功の部分だ。

 ネット上で発信される情報がかぎられた人々で共有し合い、排他性に富んでいるのなら、既存メディアが持つ公共性は具備されず、「情報弱者」からの信頼は得られないだろう。誰もが簡単に本音を発せられることによって、弱者への配慮を著しく欠いた文面がSNSを賑わし、それに賛同するフォロワーも少なからず存在するのは、言っていいことと悪いことの区別がつかなくなっていることの表れで、それらの発信者が国会議員や実業家など影響力の大きい人々なのだから、彼らも愚民社会に加担している責任は大きい。そもそも彼らは既存メディアを通じて発信できる立場なのに、ネット上であけすけに物言うのは承認欲求が満たされていないからであって、アンチを煽らせるのも想定内で故意に過激な表現を撒き散らす。そして、それに呼応したシンパが日々の生活不満に乗じて弱者叩きに拍車をかける。建設的な議論など望むべくもない。

 ネットから発生した主義主張が、左右を問わず独善的、排他的で日々の生活不満の愚痴の延長にすぎないのなら、市井の人々から幅広い支持は得られないし、既存メディアの後塵を拝し続けるだろう。しかし、ネット上には既存メディアが発掘しきれていない無名の才能に巡り合うチャンスもあり、見せかけだけの反体制ではない客観的で示唆に富んだ表現に触れることができる。掃き溜めに鶴、とは言いすぎかもしれないが、ネット普及以前なら外部への情報発信などできなかったであろう表現者たちが跋扈しているのが現状で、それらをふるいにかけながら未知の表現探しを続けている。情報品質の見極めは個人の判断に委ねられており、有事の際にデマが飛び交うのは、やはり見極めが不十分な「情報強者」が大多数を占めていることになる。

 情報を発信したり受信したりするのに、弱者だの強者だのと決めつけること自体、ネットの独善性と排他性があらわになっているわけで、既存メディアに毒された人々は歩み寄ろうともしないが、今後は幼少期からネットに触れてきた世代が社会の影響力を高めていくとなると、ネットが既存メディアを侵食していく可能性もある。本来なら既存メディアが自主規制として黙殺してきた公序良俗に反する表現が正論としてまかり通るようになれば、社会全体が不穏な方向へと舵を取りかねない。その意味では、権力と既存メディアが足並みを揃えていたほうが社会の安定に繋がるのだが、既得権益者が居座り続けるのを許すことにもなる。

 既存メディアのコンテンツに携わる彼らが既得権益者かどうかの評価は、それらの受信者となる市井の人々の性別や年齢、価値観などによって異なる。また、「老害」だの「ごり押し」だのと一方的な主観で好き嫌いを判断するのは、ネット上で無数に飛び交っている非生産的な個人の感想にすぎない。既得権益者はそれらに怯むほど繊細な神経の持ち主ではなく、広告主の機嫌を損ねない範囲で居座り続け、社会に対して何か問題提起してやろうという野心も見られない。民主主義と表現の自由に守られながらも、それらを極限まで追求せずに読者や視聴者を満足させようとするのだから、市井の人々は物事の本質をじっくり見極める機会が少なくなるし、不信感を持った人々の中にはネット上の情報がすべて正しいと思い込み、左右を問わず偏向的で排他的な民衆へと暴走していく。

 誰もが情報を発信できるとはいえ、SNSのアカウント所持は義務づけられておらず、ネットからの情報を遮断する選択もできるが、会社や学校、サークルなど何らかの共同体に属していれば、連絡手段の簡素化を目的として半ば強制加入させられるし、IT(情報技術)の活用にも逆行することになる。そこでは、見たくも聞きたくもない表現に付き合わされたり、同調圧力によって異が唱えられなくなったりするなど、誰かが風通しの悪さを我慢せざるを得なくなる。そもそも、ある表現に対してすべての受け手が賛同すること自体、全体主義的な要素を孕んでおり、SNSが自由で民主的な情報発信ツールとは決して言いきれない。

 例えば、著名人がSNSで何かを表現したことに対し、ファンが手放しで絶賛する。ファンクラブの会報や専用サイトではないから、アンチからの中傷も投稿されるのだが、よほどのお人好しでないかぎり、著名人はスルーかブロックで無視を決め込み、それらはなかったものとなる。しかし、すべてのネットユーザーがその著名人の表現を賛同することはあり得ず、むしろ発信者はアンチからの反応を理路整然と切り返す力量があってこそ、自由で民主的なSNSの表現者となり得るのではないか。もっとも、彼らはSNSで生計を立てておらず、不適切な投稿だとみなされたら削除すればいいのだから、深謀遠慮のうえで発信しているわけでもなさそうだ。

 個人の情報発信は本人の主観に基づいて忌憚なく本音が言えるから、表現の自由度も高くなるが、それらの多くは公共性を欠き、先鋭的で排他的になりがちだ。中には故意に煽動して表現の自由を拡大解釈する発信者もいて、既存メディアに毒されている市井の人々から反感を買う。煽動者は彼らを「情報弱者」とみなし、「マスゴミ」への批判を強めていく。一方、既存メディアは広告主への配慮からか、表現の自由を深追いしようとせず、横並びのコンテンツを垂れ流し、たまに発生する挑発的な表現の自由はBPO(放送倫理・番組向上機構)の審議対象となったり、クレーマーからの非難を受けたりする。それらの表現は弁解の機会が設けられることなく指弾されるのだから、あらゆるコンテンツが無難に収まってしまう。

 既存メディアは資本主義社会に守られながら公共性を保ち、民主主義社会の持続に貢献しているが、コンテンツに携わる人々は資本主義社会からの恩恵によって既得権益を得ているわけで、有事の際に広告主が民主主義に逆行すれば、それに従う危険性を孕んでいる。ネットやSNSによる個人の情報発信は、資本主義社会からの制約を受けないので、いつでも表現の自由が保たれるとの幻想を抱きがちだが、あまりにも先鋭的で排他的なものに対してはアカウントが凍結されるし、全体主義国家は民主主義国家発祥のSNSへのアクセスを禁止している。表現の自由度が高いようで高くない。ネット上で息長く投稿し続けている著名人もインフルエンサーも、表現の自由を逸脱して運営側から監視対象とみなされないのだから、瞬間的に個人の感想を発し、不都合が生じたら削除すればいいという行儀のいいユーザーにすぎない。

 ネット上に飛び交う情報に公共性が伴わないかぎり、既存メディアは既得権益者を抱え続けるし、佐野氏の指摘どおり、愚民社会のさらなる加速を招くだろう。また、公共性と表現の自由に対する解釈の仕方も各人によって異なり、偏向的な人々同士の衝突は脅迫行為などの刑事事件に発展したりもする。こうした現象に既存メディアは有識者や文化人の言葉を借りて一方のみを支持するから、もう一方は「マスゴミ」だのと応酬する。しかし、既存メディアは資本主義社会に逆らえない立場ゆえに、オリンピックなどの国家的プロジェクトに対しては、それらに異議を唱える有識者や文化人と足並みを揃えられず、民主主義から全体主義へと国民を誘導するきらいがある。価値観の多様化を認めないという点で、ネット上よりも不健全だ。

 既存メディアが社会に対して何ら問題提起できず、既得権益者が何のリスクも負わずにコンテンツに携わっているのなら、ネットが新たな潮流を生み出すことで愚民社会に歯止めをかけるのは究極の理想論だ。ただ、ネット発のメディアは資本主義社会と結びつき、既存メディアの二番煎じになりかねず、偏向的なユーザーが自由に情報発信できることで非建設的な混沌が生じる可能性が高い。民主性と公共性の両立が必要なのは言うまでもないが、それらの解釈の仕方が各人で異なるのだから、価値観の多様化を認めなければ永遠に相容れない対立が続くだろうし、かぎられた共同体での盛り上がりにとどまる。ネットを過信するユーザーにかぎって先鋭的で排他的に陥りがちなのだから、それを快く思わない人々はネットが既存メディアより信用に足りないとみなすのは当然だ。

 発信元が特定できない情報は真贋の判断が難しく、たとえ著名人など特定できても不都合が生じればすぐに削除できる。一次情報のソースを既存メディアに頼らなければならない現状が続くかぎり、ネットは日常に不満を持つ人々の発散手段にすぎず、責任を欠いた情報で埋め尽くされる。それは愚民社会を加速させるだけで、権力と資本主義社会、既存メディアを揺さぶるには程遠い。ネットがそれらに比べて秀でているのは民主性で、だからこそ誰もが情報発信できるのだが、第三者による客観的判断を欠いているため、言っていいことと悪いことの区別ができないまま、偏向的で排他的な表現がまかり通ってしまう。価値観の多様化を認め合えなければ、ネットで情報を発信するべきではなく、実名制や免許制が最善策との見方もあるが、それでは民主性が保てなくなる。

 既存メディアのコンテンツに携わっている人々が、資本主義社会との距離を広げない程度で表現の自由を行使しているから、各方面でひずみが生じている。「マスゴミ」だのと率先して批判する人々の不満も理解できなくはないが、彼らの主義主張や考え方も近視眼的で浅はかゆえに限定的な勢力にとどまっている。つまり、国民の大多数が既存メディアと不即不離を保っていて、既得権益者に対する不満も生じていない。それはネットの普及によって既存メディアへの無関心層が増えているのと、毒にも薬にもならないコンテンツを惰性的に感受しているのと、SNSで表現者に直接情報を発信できるようになったからではないだろうか。

 権力側にとって、市井の人々が従順でいてくれたほうがいいのと同様、既存メディアも彼らを刺激しないコンテンツを制作し、クレームが来たら謝罪して改めればいい。権力も既存メディアも無難に収まり、既得権益者がのさばり続けることを許せるのなら、ネット上で批判は起きないわけだが、実際には局地的に起きている。しかし、それらは普遍的な性質を帯びていないために社会を揺るがすほどの影響力を伴っていない。価値観の多様化を認め合うことから始まり、表現の自由に対する公共的な責任を負ったうえで、緩やかな急進主義を追求していくのが、無名の才能が埋もれているネットに試されている。

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