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高橋一生のファンになりたての専業主婦が初めての観劇で「フェイクスピア」を見てしまったはなし

舞台「フェイクスピア」全公演終了おめでとうございます。

高橋一生のファンとしても、演劇を観る者としても初心者でいて、平日ほぼワンオペで1才児を育てている専業主婦が、池袋に来てフェイクスピアを観た感想です。ネタバレに配慮していません。観劇された方がお読みいただくことを前提に書かれていますので、ご了承ください。


池袋駅の改札を出るところから、一緒に観劇に行くつもりで、読んでいただけると幸いです。






私のこと


まず、フェイクスピアを観た私は、泣きませんでした、ということをお伝えします。なので、この感想は、フェイクスピアのストーリーが、いかに泣けるものだったのか、という内容にはなっていないと思います。感動しなかったのではありません。泣いている余裕がなかった。舞台から発せられるあらゆる衝撃を受け止めることに精一杯だったのです。


高橋一生のファンになったきっかけは、声でした。あのいい声が聞きたくて、過去作品を遡るようになりました。それが今年の5月のことです。主演舞台が始まっていると知るも、チケットは既にSOLD OUT。それでも、観劇した方々のツイートを拝見してはあきらめられず、初めてチケットトレードをして、7月某日の席を入手できました。とにかく、生であの声を聞きたい!そう願う一心で決めた観劇でした。


プロの演劇を観に行くのは初めてです。チケットが当選した私は、まず、何を着ていくべきか、観劇中のマナーとは等々、観劇の心得を調べはじめたのです。


ちなみに、私は今まで連ドラを見た経験が殆んどなく、最近の邦画は、漫画の実写版くらいしか観ていませんでした。なので、ファンになる以前、高橋一生に関しては、乾燥肌で困っていたことと、腕の血管がニュースになる俳優という認識しかありませんでした。(そんな私が、なぜ急に高橋一生のファンになったのか。そのきっかけは書くと長くなるのでまた別途。)なので、現在も過去作品を遡り、お勉強中です。フェイクスピアを観に行く時には、高橋一生に関する知識をネット検索で多少入れて、ドラマ『カルテット』を視聴した状態でした。


野田地図に関しては、ポスターや宣伝の雰囲気から、直感的に好きな世界観だと感じていました。と同時に、難解そうな気配も察知し、内容についていけなかったらどうしようという不安もありました。シェイクスピアは、大学でいくつか勉強しましたが、今では分厚い教材が重かったという記憶しかありません。






池袋駅から東京芸術劇場まで


観劇当日、池袋に辿り着くと、家を出るときに降っていた雨は止んでいて、どこからが雲でとこからが空かよくわからない曇り空になっていました。


何年かぶりの池袋は、以前よりきれいになった印象でした。最後は、職場の上司とどら焼きを買いに来た時だったか…2年前に退職し、出産してから、コロナ渦となったこともあり、人がいっぱいいる街中の景色が、とても新鮮に映りました。


東京芸術劇場は、駅からすぐのところですが、私は、地上に出てまず、行きたかった喫茶店を目指して歩きだしました。普段なら、子どもがいて入れないお店で、何も気にせず好きなものを食べようかと目論み、色んなお店を行きの電車の中で検索していたのです。


しかし、池袋に着く手前に、なんだか気持ちが変わってしまい、だんだんと、お昼ごはんをたっぷり食べてから観劇するのは、どこか心構えが違う気がしてきてしまったのです。おしゃれなランチにありついてもよかったし、がっつりラーメンを食べてもよかったのに。結局、おいしいコーヒーとチーズケーキだけをお腹に入れ、劇場には、上演15分前頃に到着しました。


東京芸術劇場の正面入口にあるフェイクスピアのポスターを前にして、素早く合掌(このへんで、私がオタクであることがおわかりいただけるでしょうか)。通称フ柱の前で写真を撮っている方々は、高橋一生のファンの方だろうか…フフフ、いい笑顔。見ず知らずの仲間がたくさんいる気持ちになり、マスクの下で私もにんまりしていました。


エントランスからすぐ見えるエスカレーターに乗り、昇っている時、待ちに待った観劇の時間へ近づいていることが実感できました。このエスカレーターは、観劇に向かうワクワクを高めるために造られたのではないかしら、きっとそうに違いない!とか、喫茶店で飲んだコーヒーが予想の数倍おいしかったなーとかいうことを、落ち着きなく考えていたら、会場であるプレイハウスのある2階に着きました。


既に開場していたので、そこにはたくさん人がいました。私の席は、通路横でしたので、開演ギリギリまで座席につかないようにしました。パンフレットと新潮を買い、トイレに並んでから、お食事はこちらでと書かれた案内の先にある外スペースに出て待ちました。

開演まで

前情報は極力入れずに観ることをお勧めしていた、野田監督と高橋一生の言葉を信じ(舞台が恐山だということも、3日前くらいに知りました)、パンフを早く読みたいと思ってそわそわしたけれど、我慢我慢。でも、キャストを確認するくらいならいいよねと、パンフの最後の方にあるクレジットに目を通しました。


改めて、豪華キャストだな~、これからこの全員のお芝居を生で見れるのか~、すごいな~、本当に高橋一生も見れるのか~…え?ファンになって2ヶ月でご本人を拝めるって、主演舞台公演中にファンになった私、かなりタイミングに恵まれているラッキーさんでは?これは、チケットトレードしてくださった方の分まで、しっかりと見てこなくては。あーでも、本当に、お腹壊さないかな~…開演直前に、もう一回トイレに行くべきかな~…(結局、行きませんでした)。


芸能人に疎い私、他の出演者の中で知っている方といえば、あっちゃん。とはいえ、グループ時代をよく知っているわけでもなく、脱退後も何をされていたのかよく知らないので、私の中のあっちゃんが、ほとんどキンタロー。のモノマネになりつつある状態でした。


そして、川平慈英。テレビで見るとおり、舞台でも全方位川平慈英だろうな、と踏んでいました。そこが好きなので、そのままでいてほしいという願望もありました。あわよくば、ムムム!とか、楽天カードマンがアドリブで出てこないかなと期待していました(ドナルドダックが出てきました)。

出演者ではないですが、衣装を手掛けたひびのこづえ。娘と一緒に見ている教育番組『にほんごであそぼう』の衣装も手掛けていらっしゃる方、好きなんです。野田地図を直感的に好きだと思えたきっかけのひとつが、みつかりました。

他にも自分の知っている名前が連なっていないか確認していると、参考文献で気になるものがありました。日航ジャンボ機墜落の文字です。この時の私は、へ~、物語と何か関係あるんだろうな~程度の認識でした。重大なネタバレに近いキーワードを拾っていたことに気づかないおつむでいてよかった、と今なら思います。

開演5分前になり、ロビーの人気も少なくなったので、自分の席へ向かいました。会場に入ると、レンガで覆われた壁と、音響や照明の鉄骨、中央にあるタイトルロール、赤い座席が、すべてフルオーダーであつらえられたみたいでした。なんてかっこいいところなんだろう、と興奮しました。空間全体に、2ヵ月以上公演している劇の空気が染み込んでいるようにも感じました。(そう思い込んだだけで、実際に会場の換気はとても高性能と存じています。)

あまりにも舞台セットと会場がマッチしていて、自分の好みにドストライクだったので、もっと座席に座って眺めていればよかったと、ちょっぴり後悔しました。開演までのBGMにも、もう少し耳を傾けていればよかったなとも。

序盤

開演時間がきて、暗転からすぐに舞台に明かりが射し、そこに主人公monoと、大木がそびえているのが見えました。ここで、観劇初心者の私は既に舌を巻いたのです。暗転した一瞬の隙に、どうやってその配置についたのか。驚きの早業を見せられて、グッと舞台に集中することができました。そして、monoの台詞。

劇の最初に浴びた台詞がmonoであり、高橋一生の声であったことで感無量。手汗が一気に出て来たので、急いでハンカチを鞄から出して、最後までそれを握りしめて観ていました。

台詞を言い終えたかと思うと、すぐにmonoが退場。ああ、このスピード感でやっていくのか。頑張ってついていこう、と気合が入ります。そして、白石加代子の登場。先ほどの物々しい雰囲気とうって変わり、明るく話す彼女から、圧倒的女優力を全身で感じました。髪の毛一本一本まで女優の素材でできている、爪の先まで女優だこりゃ。そんな印象でした。そして、白石加代子の解説が始まったかと思いきや、いつの間にか皆来アタイの話になっていて、ぬるぬるゆるりと劇中に引きずり込まれていく…いつの間にか眠りに落ちて、夢を見せられているような演出。気づけば、目の前は、恐山の中腹でした。

イタコ見習いの皆来さん、一人称と同じアタイという名前。劇中でアタイが自分を一人称で呼んでいるのか、自分の名前を呼んでいるのかが曖昧になっていくことを、聞いている私は全く気にならないことに気が付きました。

世界の言語の中でも、日本語にはいろんな一人称の呼び方があります。それは、自分がその場にいて、どういう人間なのか、その立場によって異なりますが、このアタイとは、一人称の概念を凌駕する最強の名前だなと思いました。

役名といえば、楽もかなり変わっている。楽しんでいこうが、「楽、死んでいこう」とチャカされるなんて。そして、mono。消しゴムじゃないんだから。

楽の娘や、妻といわれる霊をmonoが憑依したシーンでは、monoの表情や、しぐさがグワッと変わる瞬間を見て、声を上げそうになりました。10列以上離れた席から見てもこんな衝撃なのだから、前列にいた方々は、さぞゾクゾクされたことでしょう…うらやましい。

女性を演じる高橋一生、抱きしめたい女優No.1でしたね。血管隆々女優No.1。まだ見ていない連続ドラマ『天国と地獄』、絶対見よう。

シェイクスピアが登場すると、ひびのこづえの衣装だからかもしれないけど、まるで大人向けの『にほんごであそぼう』を見ている気持ちになりました。「シェイク、シェイク、シェイクスピア~」に続けて、「超超超超超有名なイングランドの劇作家~♪」(「シェイクスピアのうた(マクベス編)」より)と応戦したくなりました。楽しい。なんて楽しいんだ。

四大悲劇を血液型で区分する件は、肩を震わせて笑わずにはいられませんでした。大学生の時、重たい思いをしてシェイクスピアを携え通学したかいがあった、と初めて当時の講師に感謝できました。

ハムレットからアタイに戻る場面での、monoとの「to be or not to be…」のやりとりで、客席に背を向けて笑っているmono、いや、高橋一生を見て思わずため息してメガネが曇りました。かわいすぎます。後ろ姿がかわいいmono No.1です。

そして、ここで使われたmonoの台詞にある「トランジット」に違和感を覚えたところから、観ている物語の裏側を感じ始めました。

中盤 親子だとわかったあたり

transitはこの場合、業界用語だな。航空用語っぽいなー、なんていう意味だろう?私が知らないだけで、一般的に知られているのかしら?そういえば、最初の「頭下げろ」も、なんか飛行機関係だったような…あ、乗客が身体を守る態勢だっけか?あ、飛行機といえば、伝説のイタコも飛行機に乗ってきたなー…ヒコーキ…

あと数秒でも考える時間があれば、物語の心髄にたどり着く道を見つけられたかもしれないのですが、舞台は待ってくれません。また憑依された楽とmonoが、ハムレットの一場面を演じます。でも、今度はアタイのつっこみが入らない。楽とmonoが親子?え?親子?本当にそういうことなの?物語が急に複雑になっていくのを全身で感じました。

だめだ。今、振り落とされたらついていけなくなってしまう。余計な事を考えず、劇に集中。台詞ひとつひとつを注意深く拾おう。

物語は、匣をめぐる争奪戦に。フェイクスピアが登場し、ラップが始まり、いよいよ紡ぎだされる言葉に全集中します。物語の展開も加速します。

シェイクスピアが「コトバの神様」で、 その代わりがフェイクスピア?あーもうよくわからなくなってきた(笑)映画のように字幕が欲しい。

観劇とは大変、頭脳と体力を使うなと実感しました。野田地図だからでしょうか?しかし、今ここで大事なのは、すごい声量を出しながら変顔をしている野田監督が、フェイクスピアなのかシェイクスピアなのか、ということではないのはわかります。大事なのは、言葉が「置いて、おいて、老いて…枯れて」しまったことで、「言葉の価値」と「フェイクの価値」についてなのでした。

とはいえ、私が今観ているものは、舞台の上のお芝居とは、シェイクなのか、フェイクなのか…考えても使用がないので、物語の流れに身を任せて、演者の方々の演技を目に焼きつけようと、覚悟を決めました。(これが、本来の演劇の見方なのでしょう)

中盤2 白い烏登場から

白い烏が登場し、匣を取られてしまうmono。一人三役のあっちゃんは、役柄とおりの非現実性が確立されていました。架空の存在、幻の存在、伝説の存在、羨望の的になり得る存在をしっかり演じられていた。フェイクスピアの世界にいて、まさにその存在感に満ちていると感じました。伝説のイタコの威厳と仰々しさ、星の王子様の無垢の輝き、白い烏の無知と神聖さ、すべてがあの世界の中で出来上がっていたと思います。その細い体のどこからそんないい声が出てくるの?と思うほど、そのお声がよく響いていました。

ダウジングを持って匣を探す人々が登場し、私はとうとう、ついに、やっとこ気がつきました。あ、あの匣は、ブラックボックス、ボイスレコーダーなのだ、と。妙に違和感のあった飛行機に関する用語たち。あ、あー、あーあ、だからか。あーあーあ。参考文献にあった日航ジャンボ機墜落の文字。

 それを確信した私には、更なる覚悟が必要でした。きっと、墜落の場面が再現される。気を引き締めなくてはならない。この監督はやる気だと。(この時、私は「コトバの一群」との出会いについて、監督が書かれていたことを忘れていました。)

私自身は、墜落事故を直接でも、間接的にも体験したことはありません。飛行機の墜落と聞いて、すぐに思い出すのは、私が中学2年生の時に起きた911テロ事件です。これまで、その事件に関する数々のニュースや再現ドラマ、実際の救出現場の映像も見てきました。911は事故ではなく、事件ですが、空飛ぶ鉄の塊の中で、乗客、乗組員皆が運命共同体となって降下していく。その気持ちとは、いかなるものかと考えると、今でも、胃のあたりが重くなり、手先足先が冷えていきます。

終盤

monoが「生きている人間の道」へ逃げ、「言葉ドロボー」の声によって現実が変わっていくと、物語は佳境へと、急ピッチで向かいました。じりじりと合わせられていく夢と現実の中で、私は気が気ではありませんでした。この監督は、やる気なのだとわかったので。いつあの場面に出くわすのかと、自ずと緊張が高まりました。

しかし、私の内心ハラハラとは裏腹に、台詞の脳内変換は忙しくなる一方でした。それまでに劇中に散りばめられていた言葉たちが、解体され、再構築される、を繰り返し、次々と姿を変えていくのです。

そしてやってきたあの場面。亡くなった搭乗員たちの気持ちを載せて演じる役者たちは、イタコとなったのでしょうか。この事故を知る方々は、あのラスト数分を無事に見終えることができたでしょうか。

少なくとも、私にとって舞台上の彼等は、皆イタコでした。見ているのが辛かった。心が痛い、もう止めてほしい、そうも思いました。数秒、目を開けていられなかったりもしました。

感想を書いている今でも、あの場面を思い出すと、名曲「JAM」(the YELLOW MONKEY)の主人公の気持ちになります。私はどんな気持ちで観ればよかったのだろう。あの芝居を見て、何を思えばいいんだろう。こんな時は、正解を求めるのではなく、愛する人の顔を思い浮かべるのだと歌われていますが、本当にそうだと思いました。愛する人でも、犬でも、推しでも、誰でも。愛するものを思い浮かべてしまうのは、そうすることで目の前の痛みや恐怖が和らぐからでしょうか。もしかしてそれは、この事故で亡くなられた方々の命が途切れる刹那に見たものと同じかもしれないと、不謹慎にも考えてしまいました。

観劇を終えて

カーテンコールが何回だったか、その時の演者の方々がどんなだったか、正直ぼんやりとしか覚えていません。私は、立ち上がるタイミングがわからず、でも、座っていられなくて、だいぶ立ったままで拍手をしていたと思います。

会場が明るくなると、スタッフの方々の指示に従い、順次退席をしました。めちゃくちゃ長いジェットコースターに乗っていた気持ちです。絶叫するまでではないけど、高速でうねうね揺られ、走り続けて、降りたいのに降りられないという恐怖があるコースター…いや、航空機だったでしょうか。

内臓がふわふわしたまま(空腹だからというのもありますが)、1階へのエスカレーターを降りて、しばらく座席に腰かけて天井を見上げていました。その時の気持ちを忘れたくないと思い、天井を写真に収めました。そして、感想を書こう。誰かにこのはなしを聞いてもらおう、と決めたのでした。

mono、高橋一生のこと

私は、まだ新米ファンで、高橋一生の何も語るに足らない知識と見聞しかないのですが、この方ほど'生きる'という名前が似合う俳優は、いないのではないかと思い始めています。そしてそれが、高橋一生のお芝居をもっと観たいと思う理由だろうなと感じています。かなり感覚的なはなしですが。'生'という字がとてもよくお似合いだと思います。

今や、人生のうちで芝居しない日がほとんどないであろう彼は、何百という役の中で生きながら、高橋一生という一人の人生を生きている。俳優なのだから、それは当たり前なのですが、それを地で行っているように感じるのです。子役からの継続の賜物なのでしょうか。そこに凄みを感じて引き込まれるのだと思います。

monoとは、言語としては、'単一の、ひとつの'という意味だと認識していますが、monoという名前について、劇中のmonoの台詞では、「ひとつの音」という意味でした。監督のインタビューでは、「物であり、者であり、ものである」と書かれていました。それならば、'唯一を生きる'この方が演じたということも、偶然ではなく、監督の計らいなのでしょうか。

生きてほしいコトバ

私は、言葉が存在するためには、声に出し、描き、表現し続けられなくてはならないと思っています。

野田監督が、あの「コトバの一群」をそのまま舞台にのせたのは、まさにそのコトバをこの世に存在させ続けるための営みのひとつだと思います。真実を、真実として発信するのではなく、つくられた物語、すなわちフェイクの中に置いておくことで、その「コトバの一群」が、老いて枯れてしまわないようにしたのではないでしょうか。

一枚の白い紙に、嘘と書いて張り出せば、それは嘘の張り紙だけど、その紙で折り鶴を作れば、それは折り鶴になる。私が観たフェイクスピアは、折り鶴でした。「コトバの一群」は、ピンと広がる折り鶴の両翼の間で、大切にその懐に書き記されている。その巨大な折り鶴の中で、私たち観客は、その言葉の一群を浴びたのです。

楽がmonoに尋ねていました。神様は何語をしゃべるのかと…誰もいない山の中で、大木が大きな音を立てて倒れたとしても、その声は、その命の轟きは、大木の言葉がわかるもののところに届いてほしい。届かないのだとしたら、神様が、それを拾って匣に収めてくれますように。その時は誰もわからなくても、未来に生きる子どもたちには、届くかもしれませんから。

おわりに

演劇に関しては全くの無知であり、ただ高橋一生の生声を浴びたいがためにチケットをとった私が、感想を述べるなんておこがましいので、それは自分の中だけに留めておこうと思っていました。けれど、観劇した今、そうはいかなくなりました。

感想を書くための咀嚼が足らないことは自覚しています。本当なら大阪でも観たかったし、何度でも観に行きたかった。この度はただ、初めての観劇で、とんでもないものを見てしまった!感想を書かずにいられるか!残さずにいられるか!その衝動だけで、私の観たフェイクスピアをお伝えしました。

コロナ渦にあって、この素晴らしい作品を世に出して下さった野田監督と、関係者の皆様へ感謝の気持ちをふんだんに込めて

フフフフフ


【追記 2021/8/13】
お読みいただきありがとうございます。
本文内の曲名にリンクを貼りました。