朱き空のORDINARY WAR(28/32)
第28話「捨て得ぬものを得た男、捨てるもののない女」
ユアンが死線を超えて飛ぶ空は、既に彼の支配下にあった。
秘密結社フェンリルの飛行隊は、混乱から立ち直るまでに5機を失った。まるで死と破壊が連鎖するように、赤い翼が引き裂く空に炎が爆ぜる。
特務艦ヴァルハラへの対艦攻撃が緩んで、その分だけ敵意はユアンへと集中した。
だが、単機で自在に宙を舞うユアンは、混戦模様の空を朱に染めてゆく。
「兵の練度は高い……だが、それだけだなっ!」
単純計算でも、周囲にはまだ20機以上の敵機が乱舞している。上下左右に前後ろ、どこを見ても敵だらけ。言い換えれば、獲物は選びたい放題だった。
あの日の空を思い出す。
エルベリーデへの復讐装置と化して、整備不良を押して出撃したのはつい先日のことだ。そこでユアンは、改めて戦争を手段ではなく目的とする組織と、その尖兵と化したエルベリーデを知った。
そして、自分が降りるべき場所、再び飛ぶための場所を見つけた。
新天地で新たな戦いを始めた今、ユアンに一切の迷いはない。
回線の中を行き交う悲鳴と怒号を引き連れ、紅の翼は縦横無尽に空を駆ける。
『ヒッ! こ、こっちに来るなぁ! だ、誰か――』
『ショーホーがやられた、サインツもだ! クソッタレェ!』
『各機、艦は第二波の連中に任せろ! フォーメーションを組み直せ!』
『また一機、上がってきやがった! こうなったら、飛行甲板に直撃させる! 打ち止めにしてやるぞ、死に損ない旅団めっ!』
再び眼下で、リニアカタパルトから味方機が打ち出された。
同時にヴァルハラは、ありったけの対空火器で空へと弾幕を張る。電子制御されたガトリングが灼けた薬莢を吐き出しながら、重金属の礫で空を縫い上げる。その中を対空レーザーの光が、何度も瞬いては敵機を遠ざけた。
ユアンの側へと、友軍機が上がってくる。
それは、ラステルの"シャドウシャーク"だった。
『ユアン! 手ぇ貸してやる! こいつら丸ごと、クソ溜めに放り込んでやらあ!』
「……よく離陸できたな。大したもんだ」
『ああ? 誰に言ってんだ、誰に! 手前ぇにできてアタシにできねえ道理はねえ! もうすぐ姐御たちも上がってくる!』
「なら、上空で援護だ。……ついてこれるか?」
『あたぼうよ、誰に言ってんだ! 誰によぉ!』
急降下でユアンが翼を翻す。
大海に浮かぶ木の葉のようなヴァルハラが、みるみる大きくなっていった。
まだまだ数で優勢な敵は、完全にユアンとラステルへとターゲットを切り替えたようだ。対艦ミサイルを放ち終えた機体から、身軽になって二人を取り囲んでくる。
そして、雲の彼方からは新たな編隊が近付いていた。
ユアンはヴァルハラが意図的に作った弾幕の切れ目を、かいくぐるように飛ぶ。
ラステルは背後にぴたりと機体をつけて、ユアンの撃ち漏らしを鉄屑へと変えた。
誰かに背中を任せて飛ぶことが、こんなにも安心感をもたらす。
支えてくれる人間の強さが、そのままユアンの力になる。
だが、第一波をあらかた片付けたユアンは見た。無数に放たれた対艦ミサイルが、雲を引いて向かってくる。対空レーザーの光が空を薙ぎ払って、連なる爆発が空を焼いた。その中から、見覚えのある機体が上空を過ぎ去る。
かぶるように逆落しに迫る翼に、思わずユアンは目を見開く。
『クソッタレ! ヘイ、ユアン! ありゃ……手前ぇと同じ"レプンカムイ"じゃねえか!』
「あ、ああ……量産していたとはな。だが、いくら機体が良くても――」
瞬間、背筋を凍れる殺気がすり抜ける。
まるで冷たい手で触れられたかのような感覚が、ユアンの鍛え抜かれた判断能力を励起させた。考える前に手と足とは、機体を操りダイブさせる。
ゼロコンマの過去の自分が、迸る火線で蜂の巣になった。
そして、死を呼ぶ白い鳥が優雅に舞い降りる。
ラステルの悪態と敵の絶叫が響く中……よく通る清水のような声が零れ落ちた。
『ユアン……見て。私を、見て』
「エルベリーデッ!」
『貴方との愛は、やはり捨てられないわ……だから、永遠にするの。止まった時の中で、私自身の手で永遠に!』
背後へ湿った殺意が張り付く。
機体の性能は互角、以前なら特殊なチューニングを施したR6型のユアンが有利だった筈だ。だが、そのオーバースペックなハイチューンエンジンは、先日新品の予備エンジンと交換されている。
レスポンスは悪くないし、パワーもちゃんと出ている。
だが、エンジンとは部品であると同時に、生身の臓器であり筋肉だ。
ユアン自身の肉体に合一した戦闘機の、最も過激で繊細な心臓部なのである。
予備エンジンはまだ、そういった意味では極限まで突き詰められてはいなかった。カタログスペック通りの機体では、エルベリーデには勝てない。
「クッ、振り切れない! こうしている間もヴァルハラは」
『余所見は駄目よ……私だけを見て。私が貴方を殺すところを、見詰めて、死んで!』
至近弾が背後から浴びせられる中で、ユアンは右に左にと逃げ続ける。
だが、まるで太陽が引き出す己の影のように、エルベリーデの白い"レプンカムイ"は離れない。
そう、影だ。
エルベリーデは、戦火の揺らめく炎でユアンから浮かび上がった、影。
燃え盛る戦災の業火が、色濃くはっきりとその姿を刻みつける。
振り向けばそこにいつも、エルベリーデがいた。
影に寄り添う生き方を望んだユアンを拒絶し、自分が破壊と殺戮の照り返しでしか生まれぬ陰影だと彼女は言ったのだ。
『ユアン、貴方を今……手の中に感じるわ。握る操縦桿が、熱い……あの夜の貴方を思い出すの。ああ、ユアン! もう殺すしかないわ、貴方は私とはもう飛べない。飛ばないんじゃないの……私が殺すから、飛べないの!』
衝撃と同時に、キャノピーの右側が白く染まった。
機関砲の弾丸が擦過し、無数にひび割れた硬質ガラスが視界を奪う。
コクピットを内包する内壁スクリーンの映像も、ノイズが走って乱れた。
嫐るようにエルベリーデは、ユアンの逃げる先へと射撃を先回りさせる。完全に手の内に掌握され、このまま握り潰されそうになる。だが、活路を信じて機体を操るユアンは、絶叫を聴いた。
雄々しい声と共に、背後の脅威が無理矢理引剥される。
『ユアンに……アタシの仲間に粘着してんじゃねえ! このっ、変態クソ野郎があ!』
不意に優位なポジションを捨て去ったエルベリーデを、ラステルの"シャドウシャーク"が追いかける。周囲には既に、無数の"レプンカムイが"散りばめられていた。
再び始まった攻撃の中で、とうとうヴァルハラは対空レーザーを発しなくなった。
恐らく、あのグレイプニールとかいう動力機関にはなんらかの制限があるのだろう。
弾幕が弱まったヴァルハラは、回避運動に身を捩りながら走る。
その上空でユアンは、必死で二人の女を追いかけた。
『……貴女、なに? ユアンの……なんなのかしら。他人が入っていい仲じゃ、ないわ!』
『そういう手前ぇがなにか教えてやるぜっ! ダチに、戦友に……ユアンに構って欲しいだけの痛ぇ女、自分に酔った悲劇のヒロイン気取りのクソビッチ! それが手前ぇだ!』
『――ッ! そう……死にたいならもっとはっきり言えばいい! 殺してあげるわ!』
空へと駆け上がる二機に、必死にユアンは続く。
だが、真っ白な"レプンカムイ"は大きくループを描く中で、ロールを加えての減速で"シャドウシャーク"をやり過ごした。ひねりこんでの攻防は前後を入れ替え、エルベリーデは容赦なく銃爪を引く。
あの頃のエルベリーデとは、もう違う。
はっきりとユアンも目にした。
必殺必中のタイミングを待ち、確実に墜とす……それはもう、過去の話。射程に捉えられたラステルの"シャドウシャーク"は、尾翼から右エンジンにかけて一斉射を浴びた。あっという間に爆発の花が咲いて、思わずユアンは絶叫を迸らせる。
「ラステェールッ!」
だが、炎に蝕まれて分解を始めた"シャドウシャーク"から、なにかが打ち上がった。ベイルアウトしたラステルが、中空にパラシュートを広げる。
無事を確認したその時には、憎まれ口が無線に叫ばれる。
『アタシが死ぬかよ……あの戦いで唯一生き残った、アタシが。ユアン、手前ぇでも墜とせなかったアタシが、あんなヒス女に殺されてたまっか!』
「無事か、よかった。……それと、ラステル。あの空港での戦いだが、あの時は――」
『知ってたぜ、ユアン! 撤退命令だろ? アタシは腕で生き残ったんじゃない……協約軍が空港を占拠したから、戦いが終わったから見逃されたんだ』
「……ああ」
『でもな、ユアン! あの日の敗北と生還がアタシを変えた! 本当のエースにな。だから――』
ユアンが僅かに安堵した、その時だった。
無数の"レプンカムイ"を引き連れる白い女王が、ラステルのパラシュートへと向かう。逃げ場もなくただ自由落下するだけのパイロットへと、20mmの機銃が火を吹こうとしていた。
瞬間、ユアンは周囲を行き交う弾幕の中から加速する。
耳には陶酔にも似たエルベリーデの声がうっそりと響いていた。
『お別れは済んだかしら? ユアン……駄目よ、私の前で。別の女に、優しいなんて!』
「やめろっ、エルベリーデ! 撃つな! パイロットとして、人としての大切なものを捨て去る気か! 脱出した人間を、お前は!」
『捨てるものなんて……もう、なにも持ってないわ。貴方を捨てた、貴方に捨てられたあの日から。ずっと、いつも、私にはなにもなかった! 捨てるものさえもう!』
最大加速でユアンが二人の間に割って入る。
相変わらずラステルは、口汚い言葉でエルベリーデを罵っていた。その気丈さも、歯の根が合わずガチガチとレシーバーに震える音が響く。
なにも考えずにユアンは、放たれた機関砲の中へと愛機を突っ込ませた。
衝撃にコクピットが揺れて、あっという間に失速する。
コントロールを失う中でセーフティーレバーへと手が伸びる。
だが……辛うじてバランスを保ち滑空する愛機の中で、ユアンは声を聴いた。
『ユアンさん! 緊急着陸を許可します! 意地でも着艦してください!』
それは、ムツミの声だ。
ヴァルハラはまだ、通常火器だけで対空戦闘を続けていた。
その中にはっきりと、ユアンは見えた。
自分のためだけに開けられた、空の道……対空砲火の弾幕に開いた飛行甲板への帰り道を。諦めかけた自分を奮い立たせて、ユアンは操縦桿を握り締める。
エルベリーデをすぐ背後に感じ、二度三度と射撃をかいくぐりながら……ユアンは必死のアプローチを開始した。