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オーバーシュート・デーにとっておいた、僕の伝えたいこと

「オーバーシュート・デー」


僕がこの言葉に出会ったのは、2年ちょっと前。

世界を変えたいって人前で何度も話して、その間、何度も何度も、自分の中でどうすりゃいいんだ?どうすりゃいいんだ??って自問自答して考えていたから、自分はいつかどうにかできるはずと思っていたけど、視座の低さをあの時は思い知らされた。


薄々感じていたことが顕在化した瞬間だった。

なんとなくわかっていたけど、見ないふりをしていたかもしれない。

サボっていたと言えるかもな。


要は、このまま何も考えなしに僕らが生きていたら、地球の資源は無くなってしまうっていう衝撃の事実。

地球に住めなくなるってこと。

それは、悲観的に見るまでもなく、僕らの子供の世代に訪れる。

さらに、加速しているらしい。



目がクラクラした。

焦った。

むちゃくちゃ焦った。

マジで本気出さないとヤバいって思った。


明日からできることはなんだ?

とにかく考えた。

でも、僕には手放すことができない恐れがあった。

石鹸とかシャンプーとか、ちゃんと揃えておかないと不安になる自分だったんだ。



僕は自分のことをちょっと特殊な捉え方をしていた。

いや、過去形じゃなくて、現在進行形だな。

まだそういうところはそこら中に残っているから書いておく。


そんな捉え方の中の一つ。

僕は子供の頃、自分が汚いって思っていたんだ。



きっかけの出来事もあるよ。

両足かかとのシワになるところに、小学生の時にあかぎれができたの。


「この時代にお前、あかぎれって!!」と両親からは笑われた。

お前、身体が汚いからこういうことになるんだよ!って。

お風呂でちゃんと洗っていなかったから、そうなっちゃったんだって。

父親がケタケタ笑いながら、かかとを軽石でこすってくれた。

職人の父は力が強すぎるんだ。

だから、すっごい痛かった。

泣いて泣いて、もう身体は綺麗に洗わなくちゃならない、と誓った。


あと僕は、よくお腹が痛くなる子供だった。



もうわかるよね。


小学校の帰り道に2回。

中学2年生のクラス替え直後。

うんち💩をもらしたんだ。


ちなみに当時は、誰にもバレていない

( ̄▽ ̄)

今日、初告白さ。


子供のときは母親に謝りながら、洗濯をしてもらっていた。

母親は「まったく、しょうがないね!」という不満タラタラの態度だったと思う。


中2の時は土曜日の午前授業だったから、出席番号1番で教室の窓際、一番前の席からその日は一歩も動かなかった。

そして、部活の仲間に見つからないうちに、さっさか逃げ出した。

小学校に引き続き、お漏らししちゃった僕は、やっぱり不潔だって思った。


いつしか僕は、毎朝、正露丸を飲む子供になっちゃった。

学校に行く前、おばあちゃんの部屋のテレビの下にあった瓶の、オレンジのキャップを開けて、鼻をつまんでごっくん。

そうでもしないと、安心できなかった。


そんなわけで潔癖症、とまでは言わないけど、綺麗にするって大事だなって思うようになった。

あとは、運動した後は汗のにおいとか大丈夫かなぁって気にもしていた。




時は過ぎて、ここ最近。

オーバーシュート・デーに対して、僕は変わりたいと心から願った。

怖かったけどね、本心では。

それでも、子どもが暮らす世界に、どうにか大切なものを残したいって、本気で思ったんだ。


だから、僕はちょっとずつやろう、とは思わず、一気に変えた。


その日から、シャンプーを使って頭を洗うのをやめた。

2回プッシュして、泡をブクブクに立ててすっきりさせていた髪と頭皮を、お湯だけで洗い始めた。

ベタベタなのは、ひと月もしたら慣れて、2年以上経った今日もまた、ロン毛野郎になった今でもお湯だけで洗う日が続いている。


自分が汚いって思い込んでいるところに、テレビCMで流れてた「頭皮の毛穴の汚れがこんなに!」的なイラストに、まんまとヤラレてたんだよね。

ここまで長くやってきたから断言するけど、お湯だけで充分綺麗になるんだよ。

気づいちゃえば、なんてことないんだ。



お風呂掃除にも、ルッ◯お風呂の洗剤をチューチューつけて、浴槽がキュッ!キュッ!っていうまで洗ってたんだけど、一切使うのをやめた。

スポンジでお湯洗いだけだと、汚れがどのくらい落ちたかわからないので、最近ではシャワーをかけながら素手でこすっている。

キュッ!キュッ!とはならないけど、こすると湯垢が出てくるので、綺麗になったのはよくわかる。

多分、お肌にとってもいいんじゃないかなって思うんだ。


お風呂が素手で行けるようになって、洗面台とかも素手でこすれるようになってきた。

ここまで来ると、汚いことへの恐れはまったくなくなった。

もう自分が汚かろうがなんだろうが、どうでもよくなったってことなんだろうね。



ついに、僕は行くところまで行った。


この1年間、僕は、トイレを素手で洗っている。

洗剤はもちろん使わず、洋式トイレの水が溜まっているところに、素手を突っ込んで洗う。

周囲の目に見えない部分も、指先でこすったり、爪でカリカリやって洗う。

自分の身体から出てきたものだし、汚いって思うことが不思議、って今は思っちゃってる。

ははは・・・、我ながら面白い。


ここまで来るとわかるんだけど、僕は水を汚すことにものすごく抵抗があったんだ。

それに比べたら、僕の「汚いのがヤダ」って感情は子どもじみてたね。



もし、オーバーシュート・デーを迎えてしまった日本で今、何か始めたいって思っている人がいたら、心から応援したいし、一緒に取り組みたいって思うので、お伝えしたいことがあります。


僕らが使い過ぎてしまっているのは、恐れからです。

何かに頼らないといけなくなっているのも、恐れです。

それが必要だと思い込んでいるのも、恐れです。


もし、オーバーシュート・デーを伸ばそうと思ったら、まずできることは自分から、恐れを減らしていくことです。


それを買うことで埋めている欠乏感は、どんな恐怖から湧いてきているものでしょうか?

それが必要だと思い込んでしまうのは、どんな恐れの体験がきっかけになったでしょうか?


ちなみに僕は、服や靴、装飾品にまだまだ執着があるので、これが個性だっていう思い込みがまだまだ消えません。

これもまた、僕の中に「綺麗な身なりをしていないと認められない、価値がない」っていう恐れが潜んでいるんです。



僕は過去を掘り下げることが、いつしか日課になってしまったので、子どもの頃からの恐れに気づいて、それを克服するに至りました。

正露丸のデカ瓶を年間3本くらい必要としていた子ども時分まで掘り下げると、大人になった今の解釈で書き換えることができます。


現実は過去の記憶でできています。


僕らが2020年の資源を使い切ってしまったという現実は、

僕ら日本人全員の過去の記憶の産物です。


与えたものしか受け取れないのだから、

子どもたちが受け取るものを、今から与えていきたいですよね。


要するに、うんちを漏らしまくった僕から言いたいことは、

KENTA元データのコピー2


さあ、笑顔全開、全身全霊で生きていこう!

僕は『すべての人が今生あることを感謝出来る世界』を子孫に残せるよう、目一杯に生きています。 頂いたサポートはすべて、理想の世界実現に向けた活動資金として使わせていただきます。 いつもありがとうございます。