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小野﨑太鼓店#4 三島由紀夫作品にうちの太鼓が出てくるという話、その4



今回の投稿はいつもの如く無駄にクソ長い文章なのですが、どうか最後まで読んでいただきたいのです。


まず急にすみませんね、和太鼓の話をしましょう。(ほんと急ね)
ご存知の方はそう多くないでしょう。
ひとつの和太鼓を完成させるまでには小さなもので早くても3〜4年、モノによっては10年以上の時間を要します。

原木(でっかい丸太)の状態で仕入れた国産欅を切り出して、くり抜いて、太鼓胴として大体の形を整え【荒胴(あらどう)】という状態にしたら、そこから最低数年間はじっくりと乾燥させていきます。

この乾燥の工程を省いてしまうと、お客様の元へ嫁いで行った完成品の和太鼓がある日突然派手にヒビが入ってしまったり、最悪完成前にヒビが入り弊社の商品としては取り扱えなくなります。

そしてその間に、胴口(口径)に合わせた革の準備。
和太鼓と一口に言っても、◯尺◯寸の和太鼓と言われても、口径の大きさや口径部分の厚み、角度などどれ一つとっても微妙に同じではありません。
また地域によっても胴の形や張られる革の深さなど少しずつ違いがあります。


お取引のある皮革専門業者様からお取り寄せした革を社内工場でなめし、薬品ではなく完全天然由来のものを使って何日もかけ表面を洗い、細かな汚れを手作業で落としていき、それを何度も何度も繰り返した後(この辺は企業秘密な工程を多分に含んでいるのでちょっと割愛)
巨大な凧を作るように、何十本もの竹と麻紐で縦横に革を引き伸ばし、天候を見ながら数日間天日干しを行い革の原型を作ります。

それからやっとサイズに合わせた革の裁断。
更にあれをこうして…それはこうして…(この辺以降も企業秘密な工程を多分に含んでいるので以下同文)

そんなかんじで実は完全オーダーメイドとして作られるのがうちの和太鼓なのです。

もっと規模の大きな同業者さまでしたら機械での工程を積極的に取り入れてらっしゃることで安価かつ全く同じ形で大量生産が可能なのかもしれませんが。


そうしてあれやこれやととんでもない数の工程を経てようやく完成間近となった和太鼓には、金属製の銘板と呼ばれる『うちが作りましたよエンブレム』がそれぞれの太鼓店で製造された証として打ち込まれます。

ちなみに弊社の銘板はこのように推移してきました。
初期のもの、電話番号のケタ数が少ない!!!




現在でこそこのような金属製の銘板が主流ですが、金属があまり流通していなかった頃は、焼きごてを使い一つひとつ職人の手で焼き印を太鼓の胴に刻んでいた時代もありました。
(今でも小野﨑太鼓店の撥に関してはこの『焼きごて・人の手・愛を込めてスタイル』です)

そして、三島由紀夫氏がご覧になった國學院大學様に現存する長胴太鼓も、昭和17年に曽祖父の小野﨑武光によって製造されたものということがわかり、また【うちが作りましたよエンブレム】も銅製の銘板でなく、曽祖父手彫りの焼きごてで銘としてしっかりと刻印されていました。
三島氏も、それを見て取材ノートに書き込んでくださり、傳馬町小野﨑彌八の銘が…という形で作品世界の中でも登場させてくださったのでしょう。


学があったわけでもなく、祖父と違い彫刻の才があったわけでもなかった曽祖父の武光が作った焼き印は、少々不恰好ながらも気概というか気迫のようなものを感じます。
あと、下手なりの愛嬌みたいな。

で、この曽祖父お手製の焼きごて、100年超の歴史の中で捨てちゃうわけがないので絶対どこかに保管してあるはず、と家じゅう太鼓店じゅう捜索しました。が、ない!!

歴史を振り返れば第二次世界大戦中は和太鼓作りもままならず、鋲や鋸など和太鼓作りに必要な金属も昭和18年に公布された金属類回収令によって供出しなければならなかったそうです。
おそらくそのタイミングで曽祖父の作った焼きごても供出されたのでしょう。そこそこ大きな金属の塊ですから。

戦争ってやだな。

でこの戦争の混乱に乗じて各地で商家の背乗りや歴史改竄も起きているそうなのですが、幸い小野﨑家は当時一族で3軒の太鼓店を経営していたためそういった憂き目に遭うこともなく、なんとか戦後も総本家の小野﨑幸造商店イズムを引き継ぎ小野﨑弥八商店と小野﨑太鼓店の2軒が現在まで続けてこられました。

それもこれもお客様がいてくださったからこそです。
この場をお借りして改めて感謝申し上げます。

そんな小野﨑太鼓店のお客様に、そしてこれを読んでくださっている方に、ここからが本題です。前置きなげえ!!!!

現在私は國學院大學様のご協力のもと、この【三島由紀夫が見た焼き印復刻プロジェクト】を進めております。

本来なら、國學院大學様所蔵のその長胴太鼓を撮影し、データをスキャンすれば簡単に再現できるはずでした。

が、その長胴太鼓、先述した通り焼き印部分を塗りつぶされ隠されるというちょっと予想外の状態になっており、プロのカメラマンさん・デザイナーさんをもってしても、今私達の目の前にその銘があるのに、國學院大學所蔵の長胴太鼓からはデータを読み取れないのです。

さて、皆さま、少々お手数をおかけしてしまいますが、お願いがあります。

皆さまのお手元にある小野﨑太鼓店製造の和太鼓で、このような焼き印が入ったものがもしございましたら、私か小野﨑太鼓店までご連絡いただきたいのです。
そしてもし可能でしたら、撮影およびスキャンに伺い焼き印復刻のご協力を仰ぎたく存じます。

ちなみに、超超超超紛らわしいのですが私と母(三代目女将)が手元の古い長胴太鼓の銘を片っ端から調べたところ、少なくとも曽祖父の武光は4種類の銘となる焼きごてを製作していたようです。





写真1枚目がおそらくいちばん最初に制作された焼きごて、
以下が掲載の順番に制作された焼きごてと推察しています。(全体のバランスが少し綺麗になってきているのと、﨑の字がなんかこなれてきてるから)

國學院大學様所蔵の長胴太鼓に押されていたものはいちばんはじめの焼き印による銘でした。


そして弊社が現在所蔵している古い長胴太鼓の中にはこの初代の焼き印が押されていたものも複数あったのですが、本欅の胴にある程度のサイズの焼き印をバランスよく押す…ということがどれ程大変か如実にわかりました。
残念なことに文字の欠けや枠部分の欠け、完全体の銘に近いものがないのです。

これはお客様のもとへ嫁いで行った他の長胴太鼓でも言えることかもしれません。
でも、一枚一枚データを採集することで、少しずつ足りないピースを埋め合うように、限りなく完全体に近いものを復刻させることができるのではと思っています。

この、初代の焼き印が入った長胴太鼓をもしお持ちでしたら、
今一度のお願いとなりますが、どうか焼印復刻のためにご協力いただけないでしょうか。

三島由紀夫氏の遺作【豊饒の海】をきっかけに國學院大學様と繋がったこのご縁も、曽祖父の想いも、令和の現代まで大事に大事にしてくださっていた國學院大學様の想いも、どれも無駄にしたくないのです。ひとつの形にしたいのです。

どうか皆様、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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