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パンダとシマウマになれない人々

こんばんは,今日も今日とて3000字更新する長濱由成です.さて,今日もノリノリで書き進めます.

パンダとシマウマになれない人々」,皆はこの言葉の意味が分かるだろうか.僕のnoteを普段から読んでくれている勘のいい方なら分かるかもしれない.その意味は白黒はっきりできない人々という意味だ.このような書き方をすると,おそらく「白黒はっきりするべきってどうせお前は言うんだろ」と思われるかもしれない.ただ,今日はそんなことを言うためにnoteを書いているわけではない.どちらかと言えば「白黒出来ないことこそが人間らしい」という解釈が正しい.

人間というのは元来二者択一を好む.天動説と地動説,電極のプラスとマイナス,もっと遡ると「善悪」とか「性善説と性悪説」とか二者択一の権化だ.しかし,その選択肢は本当にそれだけしかないのか.ひろゆきがよく言う「はいかいいえで答えてください」は本当に正しい論証の仕方なのだろうか.そもそもこの世は必ずしも計算機的な動き方をしているわけではない.要するに,0と1の信号でのみ区別されているわけではないのだ.にもかかわらず,愚かな下等種族である人類は二者択一の選択肢を好む.

では,「パンダとシマウマになれない人々」というのは何を表してるのか.それは二者択一を好むくせに,自分の行動は全く二者択一で動いていない人々の事である.それは僕でありあなたでありあなたの友達だ.要するに全員だ.人類というのはどうも求めることと実際にすることの差が如実に出る生物の様だ.と考えると,言論の場において二者択一で考えること自体かなりマズイのではないだろうか.

ディベートとかいう謎なスポーツがあちらこちらで行われている(実際はただの罵り合い)が,あのスポーツのレギュレーション違反度(ルールに反する度合い)は半端じゃない.そもそもルールがないから微妙ではあるが.だって賛成か反対かという二元論で始めている時点でどちらも勝ちとかないし,その時間で何も生むことはないし,なんなら時間を無駄にし心を疲弊させ,周囲からのイメージが著しく低下する.まぁ,この文章は過去の自分に向けて書いているのだが.

そもそも二者択一で考えられないからこそ人間は面白いのであって,常に2択で動けるのなら我々は計算機と変わらない.ただ,人間が計算機であることを否定すると「人間機械論」も否定し,落合陽一のデジタルネイチャーも否定し,デカルトも否定することになりかねない.ただ,ここも重要なポイントで,彼らを賛成するか否定するかという2択で考えていること自体が我々の愚かな部分なのである

部分的には好むとか少しだけ嫌いとか当然人間の感情には存在するはずだ,というか存在する.けど,それを二者択一ですぐに考えたがる.何度も言うが,人間はパンダとシマウマになれない人々なのだ.それを意地でも変化しようとするのは哀れな行為に見えなくもない.

以前,Re:HackというYouTubeの番組に立憲民主党代表の泉健太(敬称略)が出ていた.この動画では終始「政治というのはそんなに簡単なもんじゃない」と泉健太が主張していた.泉の対応とひろゆきのキレの良さを見比べたとき,当然コメント欄はひろゆきの応援に傾いた.というか,数カ月前の僕も同様の事を思っていた.

ただ,ここで冷静になるべきなのは「一方が完全に正しくて,もう一方にほとんど比がある」というケースは意外と少ないという事だ.この視点できちんとあの動画を見返すと少し感じ方は変わってくる.ひろゆきはいつものように二者択一で詰め寄るが,政治がそこまで簡単な判断ばかりで行われているほど甘いものではないという泉の主張も理解できる.なぜなら我々はパンダとシマウマになれない人々だからだ.

しかし,こんなことは誰だって思いつくはずで,知識人や言論の場に居座る人たちは当然この事に気づいているはずだ.にもかかわらず,これほど二者択一で語られまくる世の中が残り続けているのはなぜなのか.理由として2つほど考えられる.ひとつは「人間が非常に怠慢だから」だ.色々な選択肢を提示されるより,たった2つの選択肢で考える方が思考の総量として簡単だ.このあたりの話は『選択の科学』っていう本があるんでそれを読んでほしい.もちろんこれを「読むか読まないか」の二元論で語るつもりはない.少しでも,何なら表紙だけでも目を通してくれたらそれでいい.知識を覚えることはAIに任せればいいが,知識のとっかかりを作るのは人間にとって必要な生業だ.

そして,もうひとつ理由を考えるなら「二者択一だと勝敗が出る」ことだ.人間というのはどうも争いを好む.というか,気づいたら争っている場合が多い.同種なのにもかかわらず毎日何かで競い合い,しょうもない出世争いとテストの点数争いを繰り返し,アナログから逃げてもTwitterとインスタとnoteのフォロワー数で競い続けている.研究者にもインパクトファクターや引用数といった明確な評価指標が存在し,人間は誰かが決めた謎のモノサシを律儀に使いたがる風習がある

話を少し戻すが,二者択一にすると確実に勝者と敗者が存在する.なんか,この言い回しのRADIOFISH感が強いのは放っておこう.そして人間というのは勝者ではなく,敗者の負け顔を見るのが好きな習性を持ってそうだなと経験的に感じる.ひろゆきの件に話を戻すと,ひろゆきが勝つことが凄いというより負けている人の顔が2カメに抜かれているその無様な感じが人間にとって絶妙なアヘンなのだろう.こんなことを言うと「お前は違うのか」とか聖人ぶっていることがバレそうなのできちんと言っておきたい,僕も同様だ.ひろゆきが勝っているところより負け顔が面白い人を見ている節は確かにある.ただ,こんな人間味のある自分にきちんと問う必要があるのは「その論理展開におかしな部分はなかったのか?」ということだ.先ほどからずっと述べてるけど,議論で二者択一になったら注意したほうが良い.そして心の中でこうつぶやくんだ.「私たち人類はパンダとシマウマになれない人々なんだ」と.

今日はこんなところで終わりにしたいと思う.これまで二者択一で書いてきた僕のnoteの記事はもしかしたら焼却炉に入れるかもしれないから消えない間に見といてほしい.

ただ,その記事を僕自身で探すのがめんどくさいし明日には結論変わってるから多分消えないだろう.こんな感じで自分の思ってることを垂れ流しにしてただ悩み続ける.これこそが言論でありnoteの良い所なのかもしれない.ちなみに,「かもしれない」とつけると二者択一から逃れられるのでおススメだ

では,また.

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