生まれてきた意味 その2

 私は、入部前の体験会で感じた感動を求めて、ゴリゴリ体育会系の部活へ入部しました。

3年振りに話をした後輩に、この3年間に私が感銘を受けた本として『はたらく動物と』(金井真紀 著)を紹介しました。
 私が好きなエピソードとして、フランス、パリではたらくニワトリの話をしました。そこで飼われているニワトリは人間が出した生ごみを食べて排泄し、卵を産む。人間は卵をいただく。糞は土の中のミミズや微生物によって分解され栄養となる。そして草となりニワトリのエサになったり、野菜になったりする。その野菜を人間が食べる。生ごみをニワトリが食べる・・・というようなシンプルなサイクルが回っているという内容だったと記憶しています。
 取材をしていた金井さんは「ニワトリが働いていない。」と感じます。ただ、生きているだけ。でもそれで「周りの生き物(ミミズ、微生物、人間)の役に立っている」とも。

 すべてのものは、何か特別なことをしなくても、ただ自分の役割を全うするだけで、周りの人のためになっているんだ、という気づきがありました。
 むしろ自分の役割を全うする以外のことはできない。私はミミズの代わりにはなれない。ミミズは微生物の仕事をすることはできない。微生物の中にも多くの種類があり、それぞれがそれぞれの持ち場でそれぞれの仕事をしている。

 そして、それは「部活動でも同じことだね。」という話になりました。

 現役時代、私はゴリゴリ体育会系の雰囲気の部活動の一部員として、「選手として競技に出場する人がエライ」と思っていました。
 私は、競技自体に強いモチベーションを持てなくて、競技にはほとんど出場せずに、外回りの仕事ばかりしていました。だから、「学年が上がっても競技大会に参加せず、下級生がやるような作業ばかりしている自分はエラくない部員」だと思っていました。部活動の目標として大会で勝つことが掲げられていたので、全員が大会で勝つ為に練習をしなければならないと思っていました。

 でも、後輩と一緒に、パリのニワトリに思いを馳せた時、
「あの考え方は間違っていたね。」と意見が一致しました。

 人にはそれぞれその人の役割がある。みんな同じことをしなければならないなんてことはない。というかできない。部活の目標があったとしてもそれは部全体の目標であって、それを果たすための部員ひとりひとりの目標や役割は異なるのです。そしてひとりひとりの役割は他の誰でもない、「その人にしかできないこと」であって、部員ひとりひとりにエライ、エラくないというような区別はあり得ないということが分かりました。
 コンパで飲みすぎた後輩の前に最適なタイミングでバケツを差し出すことも、他のどの仕事とも比べることができない、比べる必要がない、立派な仕事のひとつだったと、今なら分かります。

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部活としての目標、例えば「○○大会で優勝する」とか「甲子園に出場する」というものは、
入部したときに求めた感動の着地点として、
部員みんなの共通認識として、
「この目標が達成できたらみんな感動できるよね」というところだと思っています。

 現役生の時に『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』を読んで、「部の目標」について私はそう理解しました。
 この本では、部員ひとりひとりの役割についても触れられていたと思うのですが、当時の私はそこまで理解しきれませんでした。

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パリのニワトリから、
・それぞれにはそれぞれの持ち場があるということ
・それぞれの役割を生きることで周りの役に立つということ
を学び、

それぞれがそれぞれの役割を全うした結果、部としての目標が達成されたのならば(あるいは達成されなくても)
その時に得られた感動は部全体のものであり、部員ひとりひとりのよろこびとなる。

そんなことが分かりました。

わたしもニワトリを飼おうかな!

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