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淋しさと懐かしさ:西川火尖句集『サーチライト』

なぜ、私たちは俳句を詠む(あるいは書く)のだろう?
こんなに短い十七音にこんなに苦しんで、傷ついて。
作品ができるたびに淋しくなっていくのはなぜだろう?

上記の感慨は別に俳句に限ったことではなく、
すべての表現行為に共通して付随する思いではないか。

そして、同時にまたこうも思うのだ。
どうしようもない、ずっと続く淋しさ。
それを埋めるように俳句(作品)を作る。
その繰り返しの刹那にしか
自分は「自分」として存在できない。
ならば、その淋しさこそ自分を自分たらしめる重要かつ
必要不可欠なファクターであると。

この淋しさを消せないから、そして他人と永遠に分かり合えないという思いがあるから私たちは初めて表現できる。そうとも言えるのではないかと。

本句集を読んでいて、ふとそんなことを思った。

感銘句。
レコードの空転が始まる彼岸
星合の象飾られしまま眠る
子の問に何度も虹と答へけり
向日葵に人間のこと全部話す
黒兎抱かれシャンソンの中は雨
いつからか逃げ花冷えの鬼ごつこ

氏の作品の最大の特質は、しらべの美しさだろう。
音数を外れていても一句としてリズムが整っていて美しい、
ということもあるが、それ以上に
「読者の心にするっと自然に入り込み、
目の前の読者のみに語り掛けている」
そんな感慨を読む者に抱かせる。
こういった個性の作家はそんなにいない(と思う)。
たとえれば、太宰治の小説や石川啄木の短歌、
そして尾崎豊の音楽(声・歌詞・メロディすべて)が
持つしらべと似ている。
相手を知らず知らずのうちに引き込む独特の魅力。
だからか、氏の作品はどれも読者との距離が近く、
不思議な人懐こさというか、「懐かしさ」があるのだ。
思えば「炎環」に入会した当初から、
彼の作品にはこのしらべが存在していた。
経験を積み、表現方法が変わってしまうこともままある中、
瑞々しさを失わずにずっと維持し続けていることは
素晴らしいと改めて思う。

個人的にもっとも好きな俳句を最後に。
遅くなってしまいましたが、第一句集の上梓、
本当におめでとうございます!

外套を君は扉のごと叩く




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