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日本からやってきた転校生@30年前の上海の公立小学校(聞書、ナドゥリな人々 スタッフU氏編)

神戸市長田区は「濃い」人が多い。キャラを立てていかないと、生き残れない土壌があるようだ。ここ、ナドゥリ界隈にも、一見穏やかなように見えて極端な時間を積み重ねてきた、磨き抜かれた個性が集まる。「聞書、ナドゥリな人々」はナドゥリ周辺の個性的な面々を紹介する不定期エッセイ企画。

2019年3月終わり頃からナドゥリのボランティアスタッフになり、今はナドゥリ運営委員でもあるU氏の話から。

U氏は一見聞き上手で穏やかな印象だが、ほとんど人の話を聞いていない。少しでも接したことがある人は、すぐにわかるはずだ。「ナルホド〜」と言っているU氏の目を覗き込んだことがあるだろうか。何も光を写していない、虚ろな闇がそこに広がる。離人症というわけではない。U氏は他者の口から発せられた言葉の集合体がどこに着地するかを確認するよりも先に、気になるフックにひっかかってそのままどこかへ意識を滑らせ始める。知らない単語は即座に検索、単語から刺激を受けて思いついたことをどんどん展開して、気がつくと目の前の相手の話はだいぶ進んでいて、もうついて行くことができない。当然U氏はまた思索にふける。一応U氏も社会生活を送るために、話の内容にうなずくフリをしているのだが、下手すぎて見ていられない。

さてそのU氏は、小学校4年生の時に家族で上海へ引っ越した。もう30年も前の話だ。その年はちょうど天安門事件の翌年。日本人学校は上海に1校あったものの、U氏の家族が住む地区とは真逆の街の端でタクシーで1時間ほどかかるということで、近所の公立小学校へ編入することになった。4年生だったが、教科書を見てもらったところ、中国の小学校では3年生の内容に相当するということで、3年生のクラスに入った。

全校生徒はみな共産党員の証、紅領巾(ホンリンジンHóng lǐng jīn、赤いスカーフ)を首に巻いている。U氏は共産党員ではないので紅領巾は持っていない。見た目は中国人と変わらないので、毎朝上級生が校門で紅領巾のつけ忘れを厳しく見張っているところへ登校しては叱責され、言葉がわからず言い返せないので黙ってクラスメートが通りかかって庇ってくれるのを待った。

校内には「雷鋒に学べ」などの中国共産党の英雄のポスターが貼られ、子どもたちは国歌に合わせて行進をする。トイレは一本溝に簡易な仕切りがあるだけの、今思えば昔懐かしい中国式のトイレで、U氏がトイレに入ると中国語で「日本人がトイレをするぞーー!」という掛け声が聞こえ、男子も女子も集まってきて、上から下から覗くのであった。

U氏の当時の楽しみはおやつの時間。給食はなく、昼にいったん帰宅して昼食をとることになっていたが、なぜかおやつの時間はあって、毎日ちがう点心がでた。1番のお気に入りは、幾層にもなったパイのような生地の中にハンバーグのような挽肉のあんが入ったもの。好きすぎてすぐに食べずに机の中に隠しておいたら、教科書を取り出す時にうっかり落っことしてしまったのを、今でも悔やんでいる。

U氏は3年前から神戸市内の私立大学で多文化教育に関する授業を担当することになり、中国にいた当時のことをよく思い出すようになったらしい。当時は中国語がわからなかったので、授業でわかったことや学んだことはほぼないが、美術教育の考え方が日本とは真逆で自由な発想よりは技術のための教育で、教科書の手本を正確に模写することを目的としていたということへのショックや、視力低下を防ぐための目の周りのマッサージの時間があったこと、内職の時間があったことなどが印象深いそうだ。

その後中国はU氏の精神的な故郷の一部になった。ジャスミンの花輪売りの香り、通学路にあった市場のにおいや魚屋で次々にウナギを捌く様子、闘蟋(こおろぎを飼育し闘わせる趣味)の籠売りの姿、路上に落ちている元より単位の下の角や毛などの紙幣や配給票を拾い集めていると「日本人の子供だ!」と言われて走って逃げたこと、大きな駅などにいた、両足を切り落とし激情をしたためた紙の上に伏せたままの物乞い、列車から見える不思議な土の中の家…。U氏は今時の若い中国人より懐かしい中国の姿を知っているとひそかに自負している。その後U氏一家は香港を経てイギリスへ移動する。上海に住んだ期間は短かったが、80后(パーリンホウ Bā Líng Hòu、中国の1980年代生まれの世代を指す言葉)の一人だと感じているのだった。

このエッセイはあくまで「聞書」、町の噂話、ナドゥリの雰囲気を伝えるものです。

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