【小説】狭間
狭間①
「カルデアにいるうちにやり遂げたいコト、ですか?」
レイシフトの目的地、近代に程近い時代の都市に向かって移動している途中。いつものように座標のズレで20kmほど離れた場所に飛んでしまったわたしたちは、朝から歩き詰めの足を休ませるために休憩に入っていた。
「うーん…。」
少女の金糸が小刻みに揺れた。
さっきまでは勢いよく野の獣を追い立て、跳び蹴り、殴打、爆薬、目くらましを食らわせていたお転婆だったのに、今はスイッチがオフになったかのように穏やかだ。いやむしろ、張り切りすぎてスイッチが壊れるとああなるのか。どっちなんだろう。
「私は多分、私のやり遂げたかったことを成して、ここにいるので。そういうのを考えるにはまだ早いっていうか。正直、日々の戦闘で手一杯というか…。」
なにが言いたいのかというと、と少女は付け足した。
「もう少し考える時間をくれませんか?」
…返事に困った。時間があるのなら良いけれど、時間が無いかもしれない。実際この旅で終わりかもしれないし、まだまだ続くのかもしれないし。
——そういう考えを、彼女はわたしの返事から識ってしまうだろう。
ためらっていると、少女はわたしを案じるように、「マスター?」と言った。
「やっぱり今すぐ何か答えるべきですか?美味しいものを食べたいとか…」
「アルトリア」
少女はビクッと肩を震わせた。
「大したことじゃなくていいんだ。きみが還ってしまったあとに、何か一つでも楽しい思い出があればいいと思っただけ。無いなら無いで構わないの。」
「…………。」
少女…、アルトリアは軽く唇を嚙んでいた。
——わたしは最近、この子にこんな顔ばかりさせちゃってるな。本当は笑っていてほしいし、何にも縛られずに堂々としていてほしいし、気遣いも遠慮もせずにわたしと接していて欲しいけど。
——でもそれは、多分もう叶わないんだろう。それは、ブリテンのアルトリアへの思いであって、今目の前にいるアルトリアへの思いとはきっともっと違うもののはずだから。
わたしはカルデアのマスター。人類最後を任された人間。
彼女はカルデアのサーヴァント。世界の終焉を看取った楽園の妖精。
だから彼女を縛っている張本人のわたしが「自由でいて欲しい」と願うのは筋違い。
「アルトリア、唇を噛むと後から荒れちゃうよ。……でもさ、何にも思いつかなくてもいいんだよ。それって多分、」
再びためらいがわたしを襲った。この先を勢いよく口にして良いのかどうかわからなかった。
…でも、止められなかった。
「……いろんな出来事がきみにとって大切だってことでしょ?」
この時間が、わたしにとってもとても大切で、本当はあってはならないものなのかもしれなくても、簡単に手放すことができない。そして、アルトリアにとってもそうであったならどれほど良いだろうかと、思わずにはいられない。
水を確保しに行っていたほかの同行者が、そろそろ行こうか、と遠くから声をかけてくれる。
アルトリアは勢い良く立ち上がって、わき目も振らずにずんずん行ってしまった。
怒らせてしまったかもしれない、という後悔は、ほんの少しだけ遅かったらしい。考えてみれば当たり前のことだ。自分の大切なものを勝手に決めつけられることほど、腹立たしい気持ちになるものは無いのだから。
わたしの言葉は、ただの希望的観測に過ぎなかった。わたしが抱いていた願望はただの欲望だった。彼女が最も嫌うであろう、うそだった。
結局街につくまで、彼女への弁明の機会はなかった。
狭間②
「結構にぎわってますね。特に異変は無さそうです」
みんながキョロキョロと周りを確認するのにつられて、わたしも周囲の様子に目を配る。
□□の街。人の通りは多く、背格好から何かに怯える様子は無い。
「怪物系の異変じゃないってコトなのかな?」
表面化していない異変ほど複雑で、発見にも時間がかかり、その上強く根付いているからタチが悪いのだと経験が語っている。
「今回も長期戦かぁ」
「そうとも限りませんよ、マスター。」
ささやきながら目配せしたアルトリアは、大通りから少し逸れた場所を見つめる。
―――どこかで見たような、見たことが無いような。知っているようで、識らないような。ああ、そうだ。ノリッ□に似ているような、そんな気がする。なんとなくだけれど。
アル□リアは熱心に違和感の発生源を見つめていた。
わたしもそれに倣って空虚を見つめてみるが、あいにくと汚れた炭焼杉の板材しか見えない。ただの家同士の、何の変哲もない隙間だ。
彼女にはなにか見えるのだろうかと声をかけようとして、ふとなにか忘れているような気がした。
——?。なんだろう、今何を考えてたんだっけ?
—まあいっか。
「ね、きみにはなにか見える?」
「うーん、魔力濃度が高そうだなー、くらいにしか感じなくて。お役に立てず、すみません。」
「そっかぁ。じゃあしょうがないね…」
「まずは情報収集、ですか?」
アルト□アは杖をどこかへ仕舞った。考え事を始めたようで何事かブツブツとつぶやいているが、生憎と喧騒でかき消されて聞き取れなかった。
「とりあえず、酒場とか探す?」
老若男女の情報が集まる場所と言えば酒場だろう。よほど禁酒に熱心でもない限り、いや、あのセイ□ムですら海男のためにひっそりと酒場が営まれていたのだから、□□の街ならば尚の事だ。
なんとなく炊きこまれたご飯の匂いを感じて、少しお腹がすく。携帯食ばかりでは「健康で文化的な生活」には程遠いのだ。端的に言えば飽きる。人間の根本欲求として”より美味しいものを食べたい”があるのだから、わたしのこの気持ちというか要望は、至って健全的――だろう、多分。
ア□トリアが同意したのでわたしたちは情報収集のために酒場を探すために、人々への聞き込みを開始したのだった。
狭間③
「おい」
街の人々に話を聞いて回っていると、後ろから乱暴な物言いで声をかけられた。無視することもできたが、不思議なことに、意識するより先に反射的に振り向いていた。
わたしの後ろに立っていたのは憲兵らしき男だった。
「君はこんなところで何をしているんだ」
「えっと…」
わたしは返事に詰まる。憲兵らしき男によってぴっちりと着こなされた制服には所狭しと勲章がつけられ、肩からは銃身を収納したベルトホルダーが掛かっている。
「答えられないような後ろめたいことでもしているのか」
その男は言った。
どうしよう。なんて答えればいいのかわからない。
傍には誰もいないから代わりに説明してもらうことはできないし、かと言ってわたしが事情を詳しく説明するのも憚られる。レイシフト先の時代の人間に、本来起きえない異変をむやみに知らせることは歴史への介入にあたるからだ。しかし何も言わなければますます怪しまれて、作戦に影響を及ぼすかもしれない。
「…もしかして言葉がわからないのか?」
いぶかしむ憲兵は眉を顰め、不機嫌そうに言った。めんどうな奴に声をかけてしまったと思っているのが見え透いた。
「いえ、わかります。でもなんて説明すればいいのかわからなくて。」
「それはこちらも困るな。このままではきみを不審者として扱わざるを得ない。」
ゾ、と嫌な汗が背中を伝った。明確な理由は見つからない。見つからないのに、それだけはだめだ、と直感が警鐘を鳴らしている。不審者として扱われれば、自分が最も恐れていることが起こる、と。
「え、えっと…。」
焦れば焦るほど言葉が出てこなかった。おかしいな、こんなことなんて何度もあったはずなのに。何度も経験しているから、焦ったら余計に怪しまれるって理解しているのに。だからいつも落ち着いて、なんでもないように、少なくとも危害を加えるつもりはないと伝えていたのに。
——どうして、言葉が出てこないんだろう。
口ひげを生やした恰幅のいい兵士はため息をついた。
「きみは作戦の要だ。具合が悪いのなら宿で休んでいなさい。」
そうだ。わたしは―――。
作戦を実行するために必要な人間だ――。
――どんなに危険な場所へ踏み込もうとも生還してきた人間だ—。
—楽観と今回こそだめかもしれないと思う気持ちを織り交ぜて、なんとか走ってきた人間なのだ。
自分の選択を後悔しないことだけを指針に生きてきたのだ。
だからこう答えるより他にない。
「———いえ、わたしは大丈夫です。まだ、やれます。」
短い黒髪にアクアマリンの輝石を2つ持つその男は、…まるで金星の女神を思わせるような癖のある黒い髪を風に揺らして…、顔を引き締めて頷くのだった。
狭間④
気づけば古びた改札の前にいた。木造の駅舎にはもう日は差していない。あれほど会話していたはずの人々の喧騒も、もうどこからも聞こえない。その代わりに、がなり立てるような、鼓膜をつんざくような空蝉が聞こえてくる。…頭が割れそうだ。
———おかしいな、わたしは誰かと合流して、それで…。
思考がそこで止まる。しかたなく、わたしは駅舎に備え付けられた腐りかけのベンチに腰掛けた。見かけによらず、案外不安定さはマシだった。
いつの間にか□□トリアとはぐれてしまっていたらしい。また一人きりになってしまった。これからどうしようか。
そんなことを考えて途方に暮れていると、空蝉のノイズに混ざって賑やかな声がたくさん聞こえてくる。座っているベンチから外の様子を確認すると、ツアーの一団を思わせる旅向きの格好をした人たちが10人ほど、改札の前で話し合っているようだった。
次はどこへ行こうか。
次はどんな人と出会うだろうか。
わたしは耳を聳てた。
——次はどんな戦場だろうか。
———次はどんな人たちを犠牲にしてしまうだろうか。
————次に滅ぼす世界はどんな世界だろうか。
聞いちゃいけない、とわたしの理性が忠告している。空蝉は宛らアラートのように、ますます勢いをつけてがなり立てていた。
——そうだ、きっと、今度こそ帰れるはず
———違う、もうどこにもない
——いいや、何も違わない
———次はきっとわたしの番だ
空蝉がぐわんぐわんと脳髄を破壊しようとしている。脳下垂体から変な内分泌物質が漏れ出しそうで気持ちが悪い。しかしそれと同時に慣れた感覚がする。生まれてこの方何万回と経験してきた感覚。何度も繰り返し味わった感覚。
それは、溺れているときに水面に引き上げられる感覚に似ている。
それは、逆流した血液で喉が詰まって呼吸ができないときに、血を吐き戻して息を吹き返すときの感覚に似ている。
それはまどろみのようで、現実への逆行に程近い。
コントロールできないから本能的で。1億4千万年の歴史が刻み付けているわたしへの責任と同じだ。
——もうすぐ夢から醒める
いつからわたしは眠っていたのだろう。いつからどこかの誰かを、見知った誰かと勘違いしていたのだろう。継ぎ接ぎの出鱈目なストーリーを、なぜ受け入れていたのだろう。
体が浮上していく感覚がする。脳みそにかかった靄が洗い流されていくような感覚がする。空蝉がうるさくて、あのひとたちは何を言っているのかわからなくて。
座っていたはずの自分がいつの間にか走り出して、改札を通り抜けていて。延々と続く線路を…、いつの間にか地下鉄の通電された線路を走っていた。
——わたしは、どこへ行けばいいの?
抱いた疑問すら振り切って、転びそうになりながら縺れる脚を必死で動かし続けた。そしてわたしは、せめて目が覚めた後の景色が、普段通りであるようにと願って、そこでふと疑問を抱いた。
——普段通りって、何?
思い浮かべる望みが、普通とは違うのだと思い知って。壊れそうで、不安で、泣きそうで。こんな夢を、彼に、彼らに見られているのだろうかと思うと恥ずかしさに耳まで真っ赤になるような気がして。
行きも絶え絶えに走り続けることしかできない。一度止まってしまったら二度と一歩を踏み出せなくなりそうで、恐ろしかった。
――ただ、痛くて。体中のあちこちが痛くて痛くてたまらないはずなのに、夢だからなのか足の裏からの貫くような痛みだけが、わたしの息をどんどん上げていく。
気づいたら、わたしは電車の中にいた。相変わらず呼吸は乱れて、顔に髪が張り付いたままだ。
電車。懐かしい乗り物。もう何年乗っていないだろうか、妙に硬いシートは温かくも冷たくもない。触れている感覚がないのは、夢だからだろうか。
この電車は何処へゆくのだろうか。自分の意志で乗り継いで、自分の意志とは違う速度で目的地まで到達しようとしている鉄の箱。足元に絡みつく影からは、錆びた匂いがする。
「降りたいなら降りればいいだろ。ほら、窓を開けてさ。」
誰もいないと思っていた隣に、終末がたっていた。
しつこいほどうるさく聞こえていた空蝉が止んだ。
「きみは、」
「おっと、それ以上何も考えないほうがいい。きみはもうすぐ目覚めるのだから。」
知ってしまうとまたあの場所へ戻るのだろうか。このまま鉄の箱に流されて、まどろむように目覚めればよいと、この男は言っている。わたしが勝手に投影しているだけの、思い込んでいるだけの、すべてが不正確な男が。
再び、意識が二つの世界の間に登っていくのがわかる。目覚める。目覚めない。本当なら人間の意志で決められないはずのものを、今わたしは手にしている。そのこと自体がおかしいのに、それを差し置いてどうしても伝えたい言葉があって。
痛いとか、痛いとか、痛かったんだ、とか。そういう言葉じゃない、もっと言語化できないなにかの叫び。
わたしが誰かに伝えたかった言葉。
まさしく、心からの叫びという言葉がふさわしい、言葉。
「いいとも、聞いてやるよ。」
男は不愉快そうに笑った。
わたしが勝手に思い込んでいるだけの不正確な男。きっと目覚めれば姿の一つも思い出せない、今ここだけに存在する男。それなのにどこか懐かしいと感じて、もう一度会いたいと願ってしまうほど心を乱してくるようなひと。
「あなたがどれほど願おうとも、わたしは必ずあなたを忘れるでしょう」———
狭間⑤
わたしがどんな状況だったのかなんて考えるほど無駄なことは無かった。当然出会っていたはずの彼、彼女にも話を聞いてみたが、皆口を揃えてこう言ったのだ。
「それは夢だったんですよ。」
「それは夢だ」
そう言い切られてしまっては反論の余地はなかった。誰もそんな記憶はないと言うし、そんなレイシフトを行った記録もないという。
…でも、確かに言葉を交わしたのだ。
アルトリアだと思いこんでいた少女も、いつの間にか都合よくレム睡眠の狭間に消えていった同行者たちも、そのすべてがわたしが作り出した夢の中の残像だったとしても。
…あの黒髪の男は、あの憲兵のような男は、確かにどこかに存在するのだと、わたしはまだ思い込んでいる。そんな夢の縁に立っている。
――そして、あの終末も。思い返そうとしても思い返せない姿形をとっていた彼。あの口調もしぐさも、いつも腐るほど見ているものだった。けだるそうな口元も、それなのにわたしを見つめるセレストも。言葉の端が摘まれるイントネーション一つすら。思えば思うほど彼なのだ。
あの夢は一体何だったのだろう。