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長くてちょっと重たいつぶやき


ある時期にある人物と出逢う。
その「時」にその「人」と逢ったのには、きっと何か理由がある。
その「時」に出会うことになっていた、ということ。
そして何かを渡しあうことになっている。きっと。

時がもし1年ずれていたら?
5年ずれていたら? きっと同じ展開にはなっていない。
その時お互いが必要なものが異なるだろうから、
出逢う必要すらもう無いのかもしれない。
時期が違ったらきっとただの通りすがりにすぎなかったろう、と
容易に想像できるような出逢いが人生には多々あるものだ。

それを見えない存在の導きという人もいれば、
運命と呼ぶ人もいれば、単なる偶然という人もいて、
どれも私には説明できないのだけれど。
だけどとにかく、人生はそんな説明できない出逢いで出来ていく。

日本語には「御縁」「えにし」という美しく便利な言葉があって、
偶然も必然も、良いことも悪いこともすべてひっくるめて
「そういう御縁だったんだね」と言ってしまえる。
とにかくそういうことだったのだ、と。

縁あって必要な人と出逢う。仕事、プライベートに関わらず。
物じゃない「何か」を渡し渡され、その縁を生きる。
自分が渡しているものが何なのか、相手から渡されているものが何なのか解らないままにせよ。。
そしてきっとお互いに何かを渡し終わった時、それは訪れる。
物理的に離れることになったり、
感情的に距離が生まれたりして関係性が変わる時が。

とにかく、そういうことなのだ。

どうせならひとつひとつの縁を全うしたい。
もうやりきった、私の役目は終わった、
渡したし渡されたのだからもう心に残すまい、と思えるように。

でもね。
お互い何をやり取りしたのか解らないうちは、
なかなか離れられないものなんだな。
だから、ああ、心がとどまってしまっているなと思った時は
その出逢いで何が起きたか、どんな風に変わったか、
どんな日々を過ごしたか、結局何を受け渡しする縁だったのか・・・
なんてことを
ちょっと立ち止まって静かに考えてみるといいのかもしれない。
はっきりは解らなくても、
ぼんやりと何か見えてくるかもしれない。

そしてそれがすとん、と腑に落ちた時、
本当の意味でその関係から離れて、
次のステージへ進むことができるんだろう。

全ての巡り合わせを「神さまのはからい」だと受けとめられたら
いいのだけれど。 齢を重ねても、なかなかその境地まで到達しない。
まあジタバタあれこれ思うのも、神じゃない人間の特権なのかもしれないな…などと自分に言い聞かせ慰めつつ…
それでも今日一日が恙なく終わったことを天を仰いで感謝する。

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