無から有を生み出す

0という概念を作った人はすごい。「無」であることを「有」の数直線上に表した。無を有のモノサシで語れるようになったのだ。

「コップに0mlの水が入っている」「太郎さんには0人の恋人がいる」など、否定を肯定で表せる。また、0があることで、10や100などが使える。n進法が使えるだけで、数はとても表しやすくなる。0がなければ、未だに正の字の数や、ローマ数字のIやVなどを数えていただろう。それほど無を有にするのは偉大な発明なのだ。

「さあ、ボクも無から有を生み出そう!」といっても、かなりかなりかなーりムズカシイ。漫画家や小説家のアイデアを生み出すことも確かに「無から有を生み出す行為」だ。しかし、それは過去の経験や実際にあった事件などを触媒としており、0を生み出す時とはまた違う。

じゃあ、触媒アリで無から有を生み出してみよう。例えば、マクドナルドで「スマイルください」と言うことだろうか。マクドナルドで取り扱っているスマイルは0円である。混雑時にマクドナルドにスマイルだけ頼みに行くのは最悪の罰ゲームである。このとき、マクドナルドという触媒を使いスマイルを生み出している。無から有を生み出したと言っても過言ではないのではないか。

しかし。もともとお金というのは、等価交換のツールである。りんごを100円で売っているのは、このりんごに100円の価値があるからである。つまり、「0円でスマイルを生み出す」というのは、「そのスマイルは0円の価値しかない」ということになるのではないか。0円から0円のスマイルを生み出すようでは無から有を生み出したとはいえない。0円で100万ドルのスマイルを生み出したとき、無から有を生み出したと言えよう。そうするとまたお金の話になり……これが無限に続く。まるで背理法だ。これじゃ無理だ。

さらにさらに。先ほど、「0を生み出す=無から有を生み出す」と言った。つまり、「0」は「有」になるのではないか……?考えれば考えるほど頭が混乱する。0の発明は、それほど偉大で、それほど悪魔的だったのだろうか。

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