【読書記録】(一応閲覧注意)ジェローム神父 著:マルキ・ド・サド 訳:澁澤龍彦

道徳に何らかの価値を置くようなあほうな人間が大勢いることだ。はっきり言うが、おれは道徳が人間にとって必要だなどと、一度だって考えたことはない。堕落は危険でもなんでもなくなる。悪性の熱をもった病人のそばにわれわれが行きたがらないのは、伝染を恐れるからである。しかし、もし自分が熱病にかかってしまえば、もう怖いものはなにもない。

「ジェローム神父」平凡社 p78 l3

四肢がもげた裸の女性が首輪を付けられてベロを出している表紙.会田誠さんの「犬(花)」である.調べたら森美術館での会田誠さんの個展にてフェミニスト団体にこの絵について抗議を受けたらしい.

その,表紙のインパクトに劣らず小説の中身も凄惨だ.この小説を書いたマルキ・ド・サドはフランスの小説家である.サディズムの言葉の由来になった人物だ.ここまでで察しが良い方はお気づきだと思うが,加虐的なエロティックな描写が多分に含まれている.

現代の倫理,道徳観から見ればこの小説に出てくる聖職者は全てクソ野郎の部類に入る.ジェローム神父(と思われる)が語り部として物語が進行する.前半はトリエント(トレント)からシシリア(シチリア)まで移動していく中で淫蕩で悪辣な自分の欲に忠実に行動しながら楽しく(?)移動していく.森の中でボロボロの少女と出会い,その少女を助けてあげようとして欺き,性欲と物欲を満たす.シチリア島に向かう船にて,たまたま一緒に乗船した見知らぬ母親の絶望した顔見たさに母親が溺愛していた二人の愛娘を海に突き落とす.

後半はシチリアの修道院が舞台となり,その修道院は美少女,美男子を集めた聖職者の色欲を満たす砦であり,外界から悪辣な事柄を隠すためのもので,ジェローム神父はそこの聖職者と意気投合し,凄惨で加虐的かつ淫欲にまみれた快楽に身を投じていく…

残虐性に溢れた快楽を如何なく楽しむ描写はとても丁寧に描写され,読者は加虐心が煽られると同時に共犯者のような罪悪感が残ってしまう.ここに関しては三浦建太郎の漫画ベルセルクでも味わったような気持ちだ.

最後に神父たちが自分の行いを正当化する哲学的なパートが存在する.なんとも自分勝手な物言いの議論を展開しているが,結論だけ書くと「全ては俺の快楽のためにある」「個人が最大の幸福を見出すためには広範かつ全般的な堕落のうちにおいてであり,道徳は幸福のためには役に立たない」と本中の聖職者は言う.

まあ,なんとも壮大な思想だが,これを否定するのは根気が必要そうだ.幸せとはなにか? 幸せを達成するには何をすればいいかに答えなければならない気がする.こんな問題をポンと出されて並の人間が答えられるはずがない.

ここで,アダム・スミスの「道徳感情論」がこれに答えている気がする.アダム・スミスは「国富論」で言及された見えざる手が有名であり,経済学の始祖であるが,道徳哲学が(この言い方は不適切だけど許して)専門であった.道徳的感情論の中心テーマは「共感」である.人間社会の根幹には共感が存在し,共感を中心に徳のある社会が実現するらしい.言い換えれば共感の働きから道徳が生まれてくるという.

ここで結構短絡的な考えにはなるが,小説にでてくるジェローム神父含む聖職者はこの共感能力が無いから道徳が無くとも幸せに至れると思っているのではないか.共感能力が無いことによって他者との絆による幸せが存在しないから道徳が幸せに必要がないと結論付けられてしまっているのではないか.

そんな風に感じた.ともすれば,残虐性における興奮は高度な共感能力が必要とされるグローバル化が進んだ現代の人間社会においては公に許容されるものではない.

挿絵は会田誠さんだが,正直,本編との結びつけをあまりしない方が良い.サドの抄訳+会田誠の作品集ぐらいの立ち位置で見ておこう.

私は経済学部でも,哲学科でもないのでアダム・スミスの話題についてはガバガバだけど,許して.原著読め!っていわれたら死んじゃう.


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