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あなたのすぐそばにある山へ行きなさい

5/3(月)晴れ。F君が企画した13時からの配信イベント「コベラバフェス2021」にゲスト出演することになり、どうせならWi-Fi完備の掬星台からと思い、午前中から摩耶山へ。どこへも行けないゴールデンウィーク、5月1日と2日の天気が悪かったせいか、せめて近場の山でもと、掬星台には家族連れや若者グループを中心に人が多め。昨年の今頃、もしコロナ騒動がなく、摩耶山の再整備によってこの掬星台が民間の手に渡り、バブリーなインバウンド向けの高級ホテルができていたらと思うとゾッとする。平時なら「もっと活用を!民営化を!」と槍玉に上がる場所。でも、こういうムダといわれる場所こそコロナ禍中の市民にとって必要な空間であり、公共財として守っていかなければならない。保健所といっしょだ。

フェスには時間があるので、掬星台のど真ん中で久しぶりにradio_nadaを配信する。告知していないので7〜8人しか聞いてないけど、そんなことは気にしない。iPhoneに「ウグイスが鳴いてますね〜ナイスですね〜」と村西監督のようにつぶやく合間に、ときおり「ホーホケキョ!ケキョケキョケキョ!」と全力でさえずるウグイスの声が配信される。グダグダのしゃべりはいらない。

ウグイスが上手く歌うほど哀しくなる。日が経てば経つほど上手くなるのだけど、結局それってモテないオスなのだ。あれだ。スナックのカウンターの端っこにいるそこそこ歌の上手いオッサン。でも「じょうずやね〜」と言われて終わり。調子に乗ったオッサンはますますこぶしを回し、ためにためて歌えど、やがて誰も振り向くなる。夏になってもまだ「ホーホケキョ」と鳴いているウグイスのことを「老鶯」という。夏鶯、残鶯ともいい、夏の季語だ。彼女ができなかったのか、街で繁殖に失敗して山にやってきたのかわからないけど、その声はひたすら美(かな)しく切ない。

もし掬星台でウグイスのように歌うオッサンがいたら「飛沫が飛ぶからやめてください」と言われるだろう。でもウグイスはマスクをしない。10:00〜17:00の間は歌ってはいけないという要請もされない(20:00以降は寝ているので歌わない)。ほんの数メートル先の木の上で歌うウグイス達の声に聴き入っていると、スナックのカウンターの端っこで健気に歌うオッサン自慢のこぶしが重なる(そういえばカウンターのことを止まり木と呼ぶ)。コロナ禍の折り、街で歌えなくなったオッサンたちが不憫でならない。

摩耶山へ行くのは、街より密にならないとかアウトドアで換気がいいといういわゆる感染対策が理由ではない。人間以外の自然が「ふつう」だから行くのだ。摩耶山では人間は少数で、自然が多数を占める。「ふつう」が異常を凌駕している。いつも通りにびっしりと密に花を咲かせる馬酔木、いつも通りに青空を突き抜けるように歌うウグイス、いつも通りにのんびり出歩く雲。誰も咎めないし、咎める理由もない。自然はただそこに「ふつう」に在る。「ふつう」に浸ってると右往左往している人間が馬鹿馬鹿しく思えてくる。神戸の人よ。山へ行きなさい。くだらないテレビを見て暗くなったり、閉まり続ける店のシャッターを嘆いたりするのはやめて、あなたのすぐそばにある山へ行きなさい。そっとマスクを外して酒を飲みなさい。そして(小さな声で)歌いなさい。山では人も少しだけ自然(ふつう)になれるはずだから。




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