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【『小鳥、来る』聖地巡礼01】ぼくじょう

2017年『しんせかい』で第156回芥川賞を受賞した山下澄人さんは灘区で育った。自分と同年代で同じ町の空気を吸っていた山下さんの作品には、もうそこにはない貴重な町の記憶が描かれている。今回のnaddist noteは『小鳥、来る』聖地巡礼と題して、そこにはない町と今の町、山下さんの記憶と僕の記憶を重ね合わせてみようという野暮な試みである。(山下さんごめんなさい)

 おれたちはぼくじょうに牛を見に行こうと川沿いを歩いていた、牧場は町中にあった、誰もぼくじょうとは、呼んでなかった、ほとんどは、
「牛小屋」と呼んでいた、おれとたけしだけ「ぼくじょう」と呼んでいた、ぼくじょうは川沿いの自動車工場の裏にあった、
                    (山下澄人『小鳥、来る』P3)

冒頭から、子どもたちの夏休みの一日に引き込まれる。
ぼくじょう。
僕もそう呼んでいた。
小学校4年生の時に、卓球ブームがあった。いやブームではなかったかもしれないけど、放課後は卓球をするのが流行った。いつもは寺の「しょいん」の台所にあった大きめの卓でやる文字通りの卓球だった。誰かが「児童館で卓球しよ」と言い出した。

河原児童館は国鉄(JR)のガードを抜けて、さらに大石川(都賀川とは呼ばなかった)を東に越えたところにあった。僕らが通う学校の校区ではなかったが、受付で名前を書けば誰でも本物の卓球台で卓球ができた。

河原児童館の手前に牛の匂いがする一角があった。近所では嗅ぐことのできないにおい。時折「もー」とか「ぶひ」とか鳴き声も聞こえる。ある日、意を決して細い路地に入ってみることにした。路地を抜けるとそれほど広くない空き地があってプンと牛糞とエサの匂いがした。いや当時は牛糞とエサの匂いなんてわからない。『小鳥、来る』のたけしが言ったように「くさい」のだ。その奥にバラックのような小屋があって大きな牛がいた。牛の横には牛乳を入れるステンレスの容器もあった。多分馬もいたような気もする。

赤牛が鳴いた、牛は四頭いた、三頭は白黒のやつで、一つだけ赤い茶色で、おれとたけしはそれを「あかうし」と呼んでいた、
                       (『小鳥、来る』P7)

『小鳥、来る』にはそう書かれてある。白黒のやつは確かに覚えているけど「あかうし」の記憶がない。ひょっとしたら僕が馬だと勘違いしたやつかもしれない。

見てはいけないものを見てしまった、いや匂ってはいけないものを嗅いでしまったような気がして走って逃げた。逃げながら「なんで牛おんねん、なんでくさいねん」と頭の中が混乱した。六甲山牧場かどこかで牛は見たことがあったが、町の中に牛がいること、町の中の牛の匂いが怖かったのだ。

昭和54年の住宅地図を見ると、ぼくじょうは千旦通4丁目にあった。千旦モータースの路地を入った奥に中田畜産という建物がある。小屋があったのは明治乳業千旦(販)のあたり。おそらく明治乳業関係のぼくじょうだったのだろう。

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路地の入口があったあたり。平成3年の河原地区土地区画整理事業によってぼくじょうへ続く小さな路地はなくなってしまった。

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灘区には他にも牧場があった。ぼくじょうの近く、都賀川沿いのダイエーの北には六甲牧場があった(六甲山牧場ではない)。小学校の給食は六甲牧場の牛乳で、ずんぐりとした瓶に三つ鱗のロゴ、紙製の牛乳キャップは薄紫色のビニールがかぶせられ赤いテープでとめられていた。六甲牧場も都市化の波には勝てず西区へ移転、その後2003年に自己破産した。

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僕にとって牛乳はくさいものだった。小学校に入って給食で牛乳を初めて飲んだとき、くさすぎて吐き気がした。給食の時間が過ぎてみんな校庭に遊びに行っても飲めない。たまりかねた担任の先生が「がんばってここまで飲みましょうね」と言って、牛乳瓶に印刷された三つ鱗のロゴのあたりを指差した。地獄だ。

いつしか牛乳も飲めるようになった3年生くらいの時、誰かが牛乳瓶のキャップをを集め始めた。そして集めた牛乳瓶の蓋を乾かしてぺったんこにして、机の上に並べて手を叩いた風圧でひっくり返すという遊びをした。集めた牛乳瓶の蓋はやっぱりくさかった。くっさーてなった。

町はくささであふれていた。子供の頃に匂ったくささは忘れない。

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