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街づかいサリー

ときどき「まちづくりの人」と言われることがある。これがとても居心地が悪い。震災以降、いわゆる都市計画的なハード整備を指す言葉からソフト的なものまで含むようになったとはいえ、まちをつくるという上から目線が気に入らない。なので、プロフィールには「嫌いな言葉はまちづくり」と書くことにしている。

誰が言い出したのかは定かではないが「まちあそびの人」と言われることもある。まちの遊び人と言えば遠山の金さんが思い浮かぶ。まちの遊び人が最後に実は江戸町奉行(権力者)だったということで喝采を浴びるアレだ。今でいうスーパー公務員ってところか(他意はありません)。「遊び」には酒色やばくちにふけるというだけでなく「ハンドルの遊び」のように機械の部品と部品との余裕という意味もある。そういう意味では今までやってきたことは遊びだったともいえる。でもやっぱりしっくりこないなと。

街をつかう

まちづくりでもなくまちあそびでもなく、じゃあなんなんだという話なんですけど、最近は街をつかう(つかわせていただく)という言葉がしっくりくる。目の前にすでにある街(空間)やモノをどうつかうか。まちづくりではなくまちづかい。ある意図を持ってつくられた場所やモノが使用者の知恵と工夫によって変化していく醍醐味。機能からの逸脱。そしてその積層。それがいきいきとした風景を生み出す。

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東神戸マラソンも街をつかう。本来マラソンは車道を通行止にして、信号も止め、警備をつけてランナーが走る道をつくる。東神戸マラソンは違う。その名の通り歩行者のためにつくられた歩道をつかう。参加者は各々勝手に歩道をちょっとだけ早く歩く。そして公園や河川敷はもちろん走ることができるのでそういう空間を42kmつなげばマラソンできるよね〜という発想。コース上には酒蔵もあるのでそこも立ち寄ってもOK。なにもつくらない。つくるのはルートマップとゼッケンだけだ。

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灘中央市場のテイクアウトイベント「紙皿食堂」。普段、市場で売っている食材をお皿に盛って食べるだけというシンプルな仕組みながら意外とワクワクする。このイベントもなにもつくらない。ただ皿を渡しお皿に買ったものを盛り付けてもらうだけ。日常の買い物ではわずらわしい(と思う人もいる)店主とのコミュニケーションが絶好のスパイスになり、いつもの場所がちょっとだけ特別な空間になる。

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「つかう」というのは何かを手段として利用するだけのことではない。人は物だけではなく他の人も使うが、それは剥奪や搾取ばかりではない。おんぶしてもらったり、もたれさせてもらったりもする。「つかう」とは「つきあい」からくるもの、つまり「付く」と「合う」の縮約系である。そして、道具を使うとは、道具の構造を受け入れることでそれにじわじわ馴染みつつ、みずからの可能性を外へと拡げてゆくことであり、そのかぎりで「仕う」ことでもある。(神戸新聞2017/5/12 汀にて 鷲田清一 より)

市場を壊してマンションを建てる。オリンピックだからといって歴史のある施設を壊す。これからは観光だとそれまで親しまれていた空間を壊す。その時々の時流に合わせて街を壊し続ける。街は消費するものではない。街と「付き」「合い」ながら、街に「仕う」こと。無意識に歩いている道も公園ももっとつかいこなせばいい。知恵と工夫とすこしの魔法があればすでにつくられたものをつかいこなすことができる。かの魔法使いサリーは「マハリクマハリタヤンバラヤンヤンヤン」と呪文を唱えながら「不思議な力で町中に 夢と笑いを振りま」いた。そんな風に街をつかう「街づかい」がいたらまちづくりなんていらないよね、サリーちゃん。







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