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それはただ運がよかったと言うに過ぎない

6月5日(金)晴れ。昭和20年6月5日の朝。灘区はB29による大規模な焼夷弾攻撃で焦土と化した。JR摩耶駅の西に線路の下をくぐり抜けるトンネルがある。当時は赤いレンガ造そのままだったので地元の古い人は赤トンネルと呼んでいた(今はペンキで塗られている)。長いトンネルの中央に照明が一つだけしかなく、昼でも暗くて通る人は壁をつたいながら歩いたので、トンネルの壁には帯状に手垢がついていたらしい。このトンネルが戦時中は防空壕になった。6月5日もこのトンネルにたくさんの人が逃げ込んだが、周囲は火の海。トンネルなので空気が抜けるので炎が入ってくる。トンネルの端にいた人は焼け死んだ。それから63年たって母がこのトンネルを抜けたところで心筋梗塞で倒れ、そのまま意識が戻らず亡くなった。街の中のなんでもない道にも死の残り香がある。

こうして無人になった町並を、炎は歓声をあげて駆け回り、やがて疲れ果てて生き絶えた。我が家は際どいところで消失をまぬがれたが、それはただ運がよかったと言うに過ぎない。以後、私達は警報のサイレンが鳴ると、全てを捨てて摩耶山麓に走った。そこには軍が掘り抜いた大規模な横穴式防空壕がいくつもあり、我々市民を受け容れてくれた。
『あの戦争から震災まで』(中村茂隆著)

震災の時、親世代はよく「戦争の時よりましや」と言っていた。彼らは新型コロナごときでは全く動じない。腹の座り方が違う。

朝、病院に寄って薬をもらってからポーアイの鈴木薄荷に薄荷油を受け取りに行く。T社長、Hさんと久しぶりに話す。緊急事態宣言中も影響はそんなになく、ハッカマスクの商品化の話が結構あったらしい。オリジナル石鹸の商品化の相談や旧社屋の話などする。戻ってきて市場メシ。U平の鰆の塩焼き、ハリイカとニンニクの芽の卵炒め、T内のおひたし、かぶら漬。午後はゼロックスが秋に保証が切れるコピー機の見積もりを持ってくる。定価500万。車が買える。灘区役所で摩耶山再生の会の会計監査。会計監査のHさんが掬星台で誰彼となく怒鳴り散らすTさんに困ってる様子。ちょっとなんとかしないといけない。支援課のTさんから坂バスでタンタンのさよなら企画ができないかと相談。バスの中にでっかいパンダのぬいぐるみを乗せたらどうだろう。バスの後ろには「パンダが乗ってます」のステッカーを貼るとか。

20時から水道筋NPOの理事会。終了後に今日から再開したK船に寄る。神戸新聞のNさんがいたので仮面ライダー企画の話など。K船のある場所にはもともと区役所があり空襲で焼けた。焼け残った資材を使ってできた闇市が東畑原市場である。明日はマヤ遺跡ガイドウォークなので早めに帰る。そういえばマヤ遺跡の一つ、掬星台も戦時中は高射砲陣地だった。

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