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「エド・ウッド」と「クレイジー・ナッツ」に見る、アメイジング・グレイスの正しくない矛盾世界

私たちはキャンセル・カルチャーとも言われる、少しでも間違えれば炎上する、正しいことと正しくないことの二元論の現代に生きています。

「死霊の盆踊り」という映画を見たことはなくても、聞いたことくらいはあるのではないでしょうか? 全裸のストリッパー達(死霊という設定)が踊る映像を延々と見せられるカルト映画です。

その脚本を手掛けたエド・ウッド、その人こそが、80年代にゴールデン・ターキー・アワードという本の読者投票でワーストに選ばれたことで脚光を浴びた通称史上最低の映画監督です。

映画が「最低」だっただけでなく、彼や彼の身の回りにいる人たちは、元祖ドラキュラを演じた往年の名優ベラ・ルゴシや、《預言者》タレントのクリズウェルなどエキセントリックな人たちばかりで大変に魅力的であったことから、関係者にインタビューして作られた伝記本が作られ、その本を元にした生涯がティム・バートンらの手によって同名の「エド・ウッド」として映画化されました(エド・ウッドの人物像や、映画化されなかった脚本、生前に偽名で大量に書いたポルノ小説を研究した本は現代でも出版され続けています)。

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ティム・バートンの「エド・ウッド」

エド・ウッドの長編映画デビュー作である「グレンとグレンダ」は、シュールな雰囲気をまとった低予算映画であるとともに、ある意味で大変にドラマチックな作品です。

この映画は本来、性転換手術をした実在の人物の伝記(と称したエクスプロイテーション)映画となるはずでしたが、本人から許諾が降りず、監督として雇われたエド・ウッドはこの映画を自身の伝記映画(長編デビュー作なのに)として撮ってしまいます。

エド・ウッドは幼少期に「女の子が欲しかった」という理由で母親に女装させられていたことから、自身も女装癖を持つようになりました(エドは同性愛者ではない)。彼の作品にたびたび登場し、Ann Gora、Angora Picturesなどの偽名や会社名などにも用いられたアンゴラのセーターは「持っていると肌ざわりで安心する」ことから、第二次世界大戦で従軍した際にも持っていったといいます(真偽のほどは眉唾ものですが)。後に、彼はアリシアという名前でドラァグ・クイーンとしてのパートタイムキャリアを持つようになり、自身が監督したポルノ映画にもアリシアとして出演しています。

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B級映画プロデューサー、ジョージ・ワイス(左)は映画の中や伝記の文体では超辛辣な人物という印象を受けるが、実際はシャイな人物であったという。伝記のインタビューでも、エドに恨みツラミを吐く関係者もいる一方、ジョージ氏はエドに対して何もネガティブなことは言っていない

キリスト教世界ではポルノはもちろん、同性愛やクロスドレッシングはタブーです。実際、1940年代から1950年代のロサンゼルスでは女装すること自体が違法であったという説もあります。ところで、エドが住んでいるハリウッドでは誰もそんなことは守っておらず、自由に女装して出歩く人たちがいました。関係者の証言によれば1950年代までのハリウッドは治安もよく、平和で、「変わった人たちが変わった人たちを祝福する場所」だったのだそうです。

そんなエドですが、実は彼自身はクリスチャンで、彼の映画の「おかしさ」やシュールさは性転換、バイオレンス、女性による犯罪、ホラーなどのテーマを扱っているにも関わらず妙に啓蒙的な語り口にも現れています(名実ともに史上最低の映画と言われるリーファー・マッドネスに通ずるものがある)。

映画「エド・ウッド」には「プラン9フロムアウタースペース」の制作資金を捻出するため、知人の牧師に出資してもらう見返りとしてバプテストに改宗するシーンがあります。これは事実に基づいたものです。エド・ウッドは美男子で口がよく回り(ホラふきの側面もある)ハリウッドの関係者の間では当時から人気があったため、映画「エド・ウッド」ではエドを快活でテンションの高いポジティブな人間として描写しています。その一方、エドは彼が映画監督として「全盛期」だった50年代後半には既にアルコール中毒になりつつありました。

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エドのほら吹きっぷりは死後出版された自伝「Hollywood Rat Race」を読むとよくわかる。「ベラ・ルゴシ3部作」は当時のB級映画としてはそれなりの予算を獲得しており、彼は常に困窮していたが、それは映画が全く売れなかったからというよりも、映画の資本を100%以上売ってしまう(つまり売れれば売れるほど損をする状態)など金勘定にルーズだったからという側面が大きい。ちなみにエド関連で一番売れた映画は脚本を担当した「The Violent Years」と言われる。

関係者の証言によればレイノルズ牧師は、地元の著名な宣教師の伝記映画を作りたいとつねづね思っていました。そこでエドは「自分(エド)の映画で一発当てて、伝記映画の制作資金にすればいい」と出資するよう口説きます。

レイノルズ牧師は知人であったエドのアルコール中毒を心配したのかもしれません。そこで、キャストを含めてバプテストに改宗することを資金拠出の条件とします。

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バプテストでは改宗者に聖水をかける(私がアメリカ西部で実際に体験した時は、コップに入った水をかけていた)。スウェーデン出身のプロレスラー、トー・ジョンソンが巨大すぎて桶に入らず、プールで「水かけの儀式」を行ったという

映画「エド・ウッド」は、ディズニー的なポジティブな映画です。脚本家のコメンタリーによれば、実在の人物を描く時は「その人物の一番おもしろい時期」を描くのが基本だそうです。

彼らがベラ・ルゴシが出演した「三部作」にスポットライトを当てて、それ以外を描かなかったのは、ベラとの友情という脚本上のテーマだけが理由ではありませんでした。

ベラ・ルゴシの死後、エドのキャリアは急速に下降線をたどり(最後の長編映画である「The Sinister Urge」(これは当時大ヒットしていた「サイコ」をモデルにした作品)以降はポルノ小説ライターに身を窶し、急速に治安の悪化したハリウッドのスラムに移住し、かつては啓蒙的だったエドの書く脚本のテーマもドラッグ、レイプ、犯罪と陰鬱で刹那的になっていく)それを描写すると陰鬱になってしまうから、そこはオミットしたのだそうです。

実際、エドが悩んだり挫折したりするシーンが最初の脚本にはもっとあったそうですが、完成した作品では(テーブルの上に酒が散乱しているなどのほのめかしを除いては)最低限に留められています。

脚本家二人のチョイスは正しかったと言えます。この映画には独特のドライブ感とスピード感があります。「エド・ウッド」には明確な悪役は出てきませんが、しいて言うならエドの映画に困惑したりなじったりするプロデューサー等の「普通の人たち」が悪役といえます。しかし見ている人はむしろ「普通じゃない」一途なエドに感情移入して応援してしまう、そんな映画に仕上がっています。

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「エド・ウッド」は史実に忠実な部分も多く、エドが出資を募るのに入り浸っていたブラウン・ダービー、ハリウッドの「Poverty Row」にあった実在の映画スタジオ(元は音楽用のレコーディングスタジオで、とても狭い)などが出てくる

クレイジー・ナッツ 早く起きてよ

映画「エド・ウッド」がエドの光の部分へのトリビュートなら、インディペンデントの監督アイリス・イリオプロスと(当時タイタニックへの出演で人気絶頂だった)ビリー・ゼインによって死後、未発表の脚本をもとに作られた「クレイジー・ナッツ」はエドの闇の部分へのトリビュートと言えます。

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映画「エド・ウッド」で、エドはベラ・ルゴシに役を説明するため、ジキルとハイドで喩える

「クレイジー・ナッツ」(原題:I Woke Up Early the Day I Died/I Awoke Early the Day I Died、エミリー・ディキンソンによる詞「I heard a Fly buzz when I died」からきていると思われる)は、死の直前、スラムのアパートから追い出されたエドが大事にスーツケースにしまっていた、彼がもっとも大事にしていた脚本を忠実に映画化した作品です。

この脚本はもともと「Silent Night」と名付けられていたことからもわかるように、無声映画仕立てになっており、エドの最後の未亡人であったキャシー・オハラ・ウッドはセリフなどを加えず、脚本に忠実に撮ることを条件に映画化を承諾します。この作品は墓、(冒頭だけだが)女装、犯罪者、セックスクラブ、ドラッグ、アルコール、エドが幼少期に見たというサーカスなどエド・ウッドの闇のテーマをてんこ盛りにしたような作品で、登場人物がほぼ全員死亡する陰鬱な内容でありながら、エドの映画が持っていた白昼夢のようなぼんやりしたイメージも併せ持った作品です。

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机の上に置かれた物の数まで脚本には詳細に指定されており、それを忠実に再現している

余談ですが、エドは映画監督としてはひどかったが、脚本家としては「早くてそれなりにうまい」人であったと証言されています。脚本はいずれもカメラワークから机の上に置いてあるものに至るまで細かく指定されており、近年発掘され書籍化された、ベラ・ルゴシが出演する予定だった未映画化脚本「Ghoul Goes West」は、最低映画監督のエド・ウッドのイメージからすると驚くほど正統派のハリウッド的な仕上がりとなっています。

「死霊の盆踊り」以降、エド・ウッドの脚本で多くのソフトコア・ポルノ映画を遺したスティーブン・アポストロフ(A.C.スティーブン)によれば、エドは「絶望的な映画監督だが、早くて良い脚本家」であったという

「クレイジー・ナッツ」は一流のキャストによって作られた作品にもかかわらず、配給会社が公開直後に倒産した(!)ことで、ドイツと日本を除いてはビデオ化すらされませんでした。このあたりも出資者を次々と不幸に巻き込んでいった(?)エド・ウッド的であると言えるかもしれません。

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サーカスのシーンには未亡人キャシー・オハラ・ウッドも出演

エドはロックなどのポピュラー音楽に対しては批判的な人間でした。アルコール中毒で、女装者で、ポルノ小説ライターであったにも関わらず、クリスチャンであり、クリスマスにはイエス・キリストの格好をしたポストカードを送っていた彼が一番好きな楽曲は「アメイジング・グレイス」だったといいます。

アメイジング・グレイス

みなさんの知っている「アメイジング・グレイス」は黒人奴隷を売り買いする奴隷貿易で財をなしたジョン・ニュートンが、自身の船が嵐に遭って転覆しかけた時に神に祈って救われた経験で改心し、のちに牧師となり、更に事件から24年の経験を経て作詞した楽曲です。

アメイジング・グレイスの美しい歌詞が説く世界は、しかしキリスト教からイメージされる正義や悪という観点からすると、実は大きな矛盾を抱えていることがわかります。その歌詞は、悪や間違ったことを許さないというものではなく、「どうしようもない悪であった私をも認めてくれた」神に感謝を捧げるというものであり、自己肯定の歌です(だからこそ美しいのですが)。

驚くべき恵み(なんと甘美な響きよ)
私のように悲惨な者を救って下さった。
かつては迷ったが、今は見つけられ、
かつては盲目であったが、今は見える。
神の恵みが私の心に恐れることを教えた。
そしてこれらの恵みが恐れから私を解放した
どれほどすばらしい恵みが現れただろうか、
私が最初に信じた時に。
多くの危険、苦しみと誘惑を乗り越え、
私はすでにたどり着いた。
この恵みがここまで私を無事に導いた。
だから、恵みが私を家に導くだろう。
そこに着いて一万年経った時、
太陽のように輝きながら
日の限り神への讃美を歌う。
初めて歌った時と同じように。

キリスト教は、絶対正義と絶対悪の二元性の宗教のように思われがちですが、ある意味では「絶対的な自己肯定」の宗教であると考えられます。そもそも、常に異教徒の危険に晒されるヨーロッパで育まれたのがキリスト教です。島国でライバルが少なく、どこかのどかな日本の仏教や、禅問答で気に入らない人を追い返してしまう中国の道教と違い、常に競争に勝つために生存戦略が必要だったことは想像に難くありません。そうして誰をも受け入れ、罪を抱えながらも自己肯定するキリスト教の世界観が育まれていったのかもしれません。

ジョン・ニュートンは嵐の事件で改心したものの、それから数年間は奴隷貿易を続けていました。

「クレイジー・ナッツ」ではビリー・ゼイン率いるバンドZVHの楽曲をはじめとして、さまざまな音楽が使われています。中でも素晴らしいチョイスがイントロで流れるダーシー・クレイによる「Jesus I Was Evil」です。この楽曲の歌詞は、実はほとんどアメイジング・グレイスと同じで、本歌取りのような内容になっています。

ダーシー・クレイはこの楽曲を発表した1年後、ドラッグ中毒の末、反自殺キャンペーンのコンサートで演奏する予定だった、そのまさに2週間前に自殺(!)し、この世を去ることになります。

映画「エド・ウッド」はエドの光の部分にスポットライトを当て、全力でエドの人生を肯定した作品であり、「クレイジー・ナッツ」はエドの闇の部分にスポットライトを当て、やはり全力でエドを肯定し、祝福した作品です。

完璧な人間ほど面白くないものはありません。突出した才能や魅力を持っていながら、決定的に何かが欠けたエド・ウッドや関係者たち。だからこそ魅力的な彼ら・彼女たちが、致命的な矛盾を抱えた状態のままで、それをありのまま肯定し祝福したこの2作品は、アメリカのキリスト教が持つ、ある種矛盾した自己肯定の世界観を内包しています。

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墓と死はエド・ウッドのメインテーマともいえるモチーフ

伝記本に書かれているエドの60年代以降の話は、彼が書いた脚本やポルノ小説の内容同様、極めて沈鬱なものです。廊下で娼婦が殺され、部屋の入り口をタンスで塞いだ話、すぐ外にあるリカーショップで酒を買うたび黒人のギャングにカツアゲされるエドの追想、ベラ・ルゴシの伝記のインタビューを受けながら最後は半狂乱になっていくエドや、ともに酒浸りになっていくキャシーとエドの口論の追想は迫真に迫るものがあります。

皮肉にも、エドがこの世を去った直後、80年代に「史上最低の映画監督」としての再評価が始まることになります。

終章

エドの最後の未亡人であるキャシー・オハラ・ウッドの当時の代理人を務めた弁護士であり、エド・ウッド愛好家であるボブ・ブラックバーンによれば、ディズニーが「エド・ウッド」を映画化した際、一般人でありプライバシー保護が必要だったキャシーらの許諾を得る必要がありました。当時貧困にあえぎ、フードスタンプで生活していたキャシー氏に、ディズニーは少なくとも6桁ドルのライセンス料を払ったそうです。

エドは常にハリウッドに住んでいました。70年代のロサンゼルスは、ハリウッドの目抜き通りのすぐ1ブロック先にエドが住んでいたスラムがあるような状態でした。

エド・ウッドが死の直前、住まいを追い出された時まで住んでいたアパート、通称Yucca Flats(緑のコケに覆われた建物)。ハリウッド目抜き通りの目と鼻の先である

生前、エドはグローマンズ・チャイニーズ・シアターの前を通っては、彼女に「いつかここで俺の映画が上映されることになる」と夢を語ったそうです。「クレイジー・ナッツ」はプレミア公開時、サンダンス映画祭の一部として、ヴァンパイラやキャシーら関係者が出席する中、グローマンズ・チャイニーズ・シアターで上映されました。

エンディングロールで、キャシー氏は感極まって涙を浮かべていたのだそうです。

補足:
キャシー・オハラ・ウッドはアイリッシュ系(O'hara)であり日系人ではない。

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