その石たちは生きている

文章化しようかどうかは迷ったが、自戒の意味を含め残しておきたい。

今月、上海との連珠対抗戦を行なった。8VS8の団体戦で、結果は日本から見て4勝12敗、私個人は0勝2敗と完敗に終わった。新型コロナウイルスが流行し始めてからというもの、私は名人戦関連以外の大会には出場していない。今回の親善試合は公式戦でこそないものの、連珠ではあまりない他国との交流試合ということで公式戦と同等か或いはそれ以上の緊張感があった。普段画面を通して連珠盤を見るとき、こうした緊張はプチ大会でも全くといっていいほどなかったが、今回に関してそれは当てはまらなかった。

さて、これは連珠だけではないかもしれないが、しばしば「実戦から遠ざかると弱くなる」という言い方をされることがある。私はこれを「技術的に弱くなる」(局面認知能力判断能力その他が低下する)といった意味合いで捉えていた。私個人の体感だけで述べるのであれば、2020年→2021年の一年間でむしろ強くなったという実感があった。中国の選手とは対局経験が何度かあったこともあり、自信があると言えるほどではないが、肯定的な緊張感を持って当日を迎えることができた。そして対局開始後間もなく、先のことばの意味合いを私なりに実感することになる。

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これは対局の途中図で私の白番。相手の打った黒7はいわゆる奇襲として認知されているものだ。正しく対応すれば白が良くなる、その程度の認識はあった。なおかつ、相手はこの手を採用して何度も勝っているものだから、こうなるだろうということは事前に予測可能ではあった。まずここが私の悪い癖の一つで、相手が何度も見せている、的確に対処されれば悪くなる戦型を自分には採用してこないのではないかという気持ちがあった。検討段階でこの図を見ていた時、ソフトの評価値が同時に表示されている。そのときでは何も自分の感情に訴えることのない、ただの白有利の局面として認識していた。それがいざ打たれてみるとどうであるか。自分は大した知識も理解もないのに、相手はこの手を使って何度も死線を潜り抜けてきた、相棒と呼んでもよいような形なのだ。それを認識した瞬間、もしくは対局が始まった直後だったからか、石が本当に生きていて自分を食らい尽くさんとするかのようなプレッシャーに襲われてしまった。これが「弱くなる」の本質的な部分なんだろうといまは感じる。普段の練習ではレートという形で競っている。一局負けても次勝てばいいし、最終的に数字が上がればそれでいい。ところがこの対局は違う。形勢がどうだろうと、仮に連戦して今度は私が連勝したとしても、この一局はこの一局としての絶対的な結果が残ってしまう。その一局において自分はちょっと聞きかじったことがあるくらい、相手は経験豊富という絶望的な状況にあることを、黒7と打たれてようやく理解した。これは時折実感して記憶に残そうとしているのだが、どうもこうした特殊な感覚は一定期間離れていると忘れてしまうようだ。局面としては途中優位に立ったようだが、精神的には終始押されており、チャンスはあったものの良いところなく負けてしまった。

続く二局目は比較的得意意識がある名月を提示した。ここでもふと気づく。自分はこの一局に命を預けられるほど名月をやれていないな?と。私はどちらかといえば広く浅く準備するほうで、いまの過酷な連珠環境に対応できていなかった。画面を通してなんとなく見た状態や、実際に並べて確認したときもいけそうだなとは思っていた。しかしいざ実際に連珠という大自然に足を踏み入れたときに、何の準備もできていないことを理解した。当事者視点に立てていなかったというわけだ。結局この局もあまりいいところなく敗れてしまった。

これは非常に解決が難しい問題だが、常に考えておく必要がある。自分のやろうとしていることについて、真に命を預けられるのかを。コロナ禍はまだ続きそうである。この感覚はまた時間とともに薄らいでゆくと思うが、何がしかの機会にまたこの記事を読んで思い出せますように....

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