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「評価されるための英語」から降りる

家の新築のために、実家で仮住まいをしている。

住まわせてもらえることはありがたいと頭では分かっていながらも、昔、自分が我慢してきたことを思い出して、いちいち心を動かされてしまう。

例えば、シャワーの出が悪いとか、いらないものが溢れていて必要なものが置けないとか。具体的な不便を感じるたび、それとは直接関係のない「我慢させられていた子供時代の自分」が顔を出してきて、無性にいらいらしてしまう。

そして、ちょっと業者さんを呼ばなければ・・・くらいのレベルの不具合が起きた時にも、母は本当に頼りなく、これまた「自分がしっかりしなければ」と頑張り続けなければいけなかったことを思い出して、腹が立ってくる。

これらの苛立ち、腹を立てることは、仮住まいがきっかけなのではなく、私が段階を経て、できるようになったきたことだ。(あえて「できるようになったこと」と言いたい)

一過性脳虚血発作を二度起こしたこと。

母に、いじめられていて苦しかった幼少期のことを話したこと。(これは本当に大きな転機で、noteの記事にも残してある)

コロナの後遺症で苦しかったこと。

更年期で不安感が強くなったり、気持ちの浮き沈みが大きくなってきていること。

今、パッと思いつくだけで、ここ3年ほどにあった転機がこれだけ挙げられる。その度に、ちょっとずつ自分の考え方が変化していった。


「評価されること」から降りたい

自分の気持ちを大切にする。
なかったことにしない。

そう心がけるようになってからの3年間。

それまでは見てこなかった(あえて見ようとしなかった)自分の気持ちに対して、「あ、本当はこういうことだったのか」「こう繋がっていたのか」と気づくことが増えてきた。

そのうちの一つが、英語。

3つの難関資格(英検1級、国連英検特A級、TOEIC満点)をとったことと、今やっていることの整合性が見つけられなくて、英語に対して以前ほどの情熱が持てない日が続いていた。

仕事として触れなければいけない英語。通ってくださる生徒さんたちの英語力を伸ばさなければならない、その責任は本当に重い。

いつからか、仕事としてしか英語に触れなくなってしまった。

「自分のため」と読んでいる洋書だって、英語力を伸ばす=「生徒さんのため」で、心から楽しむがメインではなかったように思う。


そもそも英語が好きだったのか

問題が解けるから嬉しい。
いい成績がとれて嬉しい。
友達より先に、英検◯級に合格できた。

思えば、中高生の頃に好きだった理由もこれくらいだ。
まとめれば、「褒められて嬉しい」という気持ちから来たもの。

大学に入り、自分より英語が得意な人に囲まれて、一気に自信を無くし、英語から離れた。

それも、英語ができることと自分の価値を同一視していたからこそ、そうせざるを得なかったのかもしれない。

やっぱり英語から離れられないとの思いで、社会人になってからやり直したこと。
3つの資格をとったこと。15年以上かけて、褒めれられることをひたすら追い続けてきたのだと思う。


もっとフラットに英語と付き合う

3つの資格を取ったことに対して、かなり悲観的な書き方をしてしまったように思う。

資格を得る過程で伸ばすことができた英語力は消えないし(あ、続けてないと消えるか。またそれは別の話)、応援してくれた家族や友人、ネット上の仲間に対して、「やっぱり無駄でした」なんていうつもりはない。私のことを思ってくれた気持ちが、本当に嬉しい。

いくつか間(あいだ)の気持ちが抜けている気がするけれど・・・

いろんな感情の変化を経て、今はもっと英語を特別視しないでおこうと思えている。

英語ができることが自分の価値なのではない。

(英語を活かして就いた)仕事が、私の価値を決めるわけではない。

資格で上り詰めてしまったからこそ、「失敗できない」の思いも強くなってしまっていたと思うから・・・

英語と自分を切り離して、もっと英語で失敗しよう、英語で遊ぼう。

最後、教育テレビみたいになってしまったけれど・・・

これが今の正直な気持ち。


おわりに

評価の対象から降りるべきなのは、英語だけではない気がする。

今、パッと思いつくのは、ダイエットとか。

もういい加減、褒められることで自分の価値を測るのはやめよう。

なんだかうまいまとめが思いつかないけれど。

自分の気持ちをさらに大切にして、毎日生きていきたい。

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