小ネタ#17「美術系予備校生・・受験2番手はM美。まず2教科試験を通過したら小平で鉛筆デッサンだ!!」
現在のM美の受験は下図のようだが、当時は一般方式だけだったし、一次の英語・国語の教科試験を通過したら実技試験に進むことができた。これは美術系の予備校生にとってはかなりの鬼門だった。なぜなら、ほとんど学科の勉強をしないから。だから予備校のクラスメートのほとんどはM美を受験しなかった。
幸い出身高校の美術科は、美大芸大受験に特化した進学クラスだったので、余計な学科は省いて「英語・国語」は重点的に学ばされたから問題なく通過。いよいよ実技試験の日となった。
前回の失敗に学んで、試験会場に入る行列は後ろのほうに並んで、席順の紙切れをもらう。おおっ!やったあ〜 一番前だった。T美の試験で同じ教室になったライバルはお隣に。モチーフは確か植物が山ほど入ったバケツだったかと思う。
午前中3時間だけのデッサンだったので、今回は迷わず一心不乱に描けるだけ描いた。当時、T美は薄めのデッサン、M美は濃いめのデッサンが各大学の好みと言われていたので相当濃いめに描き込んだと思う。(こういう情報は予備校ならでは)
言いたくはないが・・M美のこのパンフレットの色具合、ほんまに美術系か!? 酷いよねえ・・当時は東京芸大の次にM美の倍率が高く、そのM美のなかでも視覚伝達デザイン学科(ビジュアルデザイン)が一番倍率が高かった(20倍ほど)。
はい、合格でした。新美でT美に合格した受験生はほぼM美にも合格。で、入学式で全員M美で再会。T美とM美で同じ受験会場でデッサンをしたお隣さんはクラスだけは違った。視覚伝達デザイン学科、70年代は70人ほどで2クラス。ええっ!今は油彩学科と同じで120名ちかくもいるの!? なんで??
Yahoo!知恵袋に面白い問答があった。
T美とM美出身の有名人比べが書かれてあったが、T美がユーミンでM美が村上龍とあった。この2人、あたしらの時代です。しかもアートじゃないじゃん!!つまり、それ以降は誰も出てないってこと? ちなみに少し自慢ですが、1号館の掲示板に村上龍氏と並んで中途退学者名簿に掲載されました、あたしの名前!!
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番外編:当時の視覚伝達デザイン学科定員について、定かではなかったため念の為M美の教務に電話したら「調べましたが古すぎて分からない」という返事。古いって言っても50年以内のはなし。ウィキによると商業デザイン科から視覚伝達デザイン科に名称変更があったのが1974年、そのあたりなら情報があってしかるべしだと思う。なんとも腑に落ちないなあ・・
次回は「芸大の試験」・・やらかしました。。。
つ・づ・く
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