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サイダーとアイス 01 テーマ「海」

「サイダーとアイス」は田丸まひる・なべとびすこの短歌コラボ企画です。1号では「海」をテーマにそれぞれが書いたエッセイをもとに短歌連作を作りました。

エッセイ「海を越える」田丸まひる

 「ほんまに会いたいんやったら、海を越えるしかないんですよ」
東京や大阪に遊びに行くと「遠いところからありがとう」と言ってもらえるような場所で暮らしている。四国、そんなに遠いですかね。たしかに、海に囲まれていますもんね。
 海辺の町で暮らしていると、車を少し走らせるだけですぐに海にたどり着く。波のきらめきも潮の匂いも、潮風がきつくて整えたはずの前髪がすぐにぐちゃぐちゃになってしまう日常に溶け込んでいるし、そんなにおしゃれな気分じゃなくても、幼稚園の送り迎えに毎回海岸沿いを走る必要だってある。海は、ただそばにある。
 だけど、わたしにとっての海はずっと、会いたい人に会いに行くために越えていくものだった。鳴門から高速バスで大鳴門橋を渡って、大渦のできる海を越えて淡路島へ。それから明石海峡大橋を通って、関西の短歌のイベントに向かう。同じく、歌集批評会や文学フリマのために東京に向かう時は、飛行機で一気に海を越えていく。
 橋を渡るときにバスの窓から見える海は、たまたまだったのかいつも晴れていたから鮮やかに青く、泡立つような波に、あれこれと考えている言葉がさらわれるようだった。道中で本を読もうと思っていても、海が見えたら、海を眺めていた。
 飛行機から時々見下ろす海は、ぱーんと平らで、行きよりも、帰りの徳島の海を見ていると何とも言えない安心感があった。
 そして、海を越える記憶が色濃く残っているのは、その時にどうしても会いたかった友人や、好きだった人など、たった一人に会うためにそこに向かっていた時間や、別れて帰ってきていた時間だと思う。
今はなかなか会えていない友人と昼と夜の食事をともにする。気合を入れて会いに行ったけれど、あれこれと話す内容は他愛もないものだったりして、でもそれが楽しみで、橋を渡っている時に見える波が高揚感を高めてくれた。
 好きだった人に会いに、その日の仕事を終えてから夜の海を渡っている時は、橋の灯りに照らされた海が反射してきれいだった。けれど、会えるはずなのに会えないような気がして苦しかった。一瞬の感情が海に溶け込んでいっても、息苦しさはなぜか消えなかった。翌日、朝日を吸い込んだ海を見ながら帰った時の感情にはもう名前がつけられない。
 これから先も、何度も海を越えて、誰かに会いに行く。そのたびに見下ろす海は、違う表情をしている。感情を溶け込ませたいなんて、馬鹿なことを思って申し訳ないけれど、でも、そんなの、そこにある海には、関係ないんでしょうね。

短歌連作「海の指先」なべとびすこ

波は海の指先だろう遠くからマイクロプラスチックが届く

会っている時間<会いに行くための時間<会うためにあるすべての時間

空も海も人にかかれば路だった誰かのひとりごとも聞こえる

隠してることを隠した 海になら言える話を言わないことも

あなた宛の荷物が海を越えていく送り状は潮風をはらんで


エッセイ「遠巻き」なべとびすこ

 海が嫌いだった。厳密に言えば、海に入るのが嫌いだったせいで、海そのものを嫌いになっていた。子どもの頃からアトピーがあって、海水に浸かると身体中がしみたし、子どもの頃から積み重ねてきた湿疹の跡だらけの身体で水着を着るのも嫌だった。大人になってから行った沖縄でのシュノーケリングのあとも、ものすごい鼻炎が出た。私はアレルギー検査で全項目にアレルギーがある(毎日食べている米や小麦にもアレルギー反応があるが軽度なので許されている)人間で、たしかに海にはあらゆる物質が混ざっているはずだから鼻炎が出るのも必然である。
 数年前にカメラを買ってから、いろんな場所に出かけるようになった。私のInstagramには、佐世保で見た海と橋、須磨浦公園から見た海と桜、高松で見た海と船、淡路島で見た海岸線があった。私は海に入るのが嫌いなだけで、海を見るのは好きだということに三十代になってようやく気がついた。

 そういえば、私は新幹線から富士山を見るときに全く感動しない。富士山を通りすぎるときに富士山を指さしたり、スマートフォンのカメラを向けたりしている人を「富士山に感動してる人たちやな〜」と思いながら見ている。富士山に興味がないのは、小学生の頃に家族で富士山に登ったときのしんどかった思い出がまとわりついているからかもしれない。ちなみに富士山に登ったのはSMAP×SMAPでメンバーが罰ゲームで登ってるのを見たからだ。罰ゲームで登っていたものを「家族みんなで登ろう!」という親の発想は冷静に考えれば狂気である。
 ただ、人生における「富士山に登ったことがある」というスタンプを早めに押せてよかった、と最近は思う。私はまだ新幹線からの富士山しか知らないが、良いロケーションで富士山を見れば嬉々として写真に撮るであろうことを容易に想像できる。「なんやかんやで富士山は良いよな!」と言いながら、過去に押した「富士山に登ったことがある」スタンプがより輝くであろうことも。

 海も富士山も遠くから見ているだけでいい。そういうものが世界にはあっていいんだと思う。ここ数年でアレルギーがひどくなった私は、現世ではもう二度と海には入れないだろう。遠くから見る海を写真におさめようとする気持ちがあるうちに、あといくつ海を見れるだろうか。

短歌連作「見えていたから」 田丸まひる

分からない言葉が辞書に載ってない(シーブルー)今やさしくされたくない

なんの話だったかな誰のことだった? サイゼリヤには隅っこがある

ガラスびん抱えて歩くどこまでもあの日の海を閉じ込めたまま

わたしだから見えていたのはカメラには写らなかった睫毛、とうめい

ポケットの奥の砂全部かき出して指先の皮膚の感覚過敏


プロフィール

田丸まひる

「未来短歌会」「徳島文学協会」所属。「七曜」同人。短歌ユニット「ぺんぎんぱんつ」の一人。趣味は宮本佳林さんとハロー!プロジェクトの応援。歌集に『晴れのち神様』(絶版)『硝子のボレット』『ピース降る』(ともに書肆侃侃房)共著に『うたわない女はいない』(中央公論新社)

なべとびすこ

大阪市出身&在住。TANKANESS編集長兼ライター。
短歌カードゲーム「ミソヒトサジ<定食>」「57577 ゴーシチゴーシチシチ(幻冬舎)」シリーズ私家版歌集『クランクアップ』発売中。
所属「短歌同人ジングル」


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