「分かる」を鵜呑みにするな

人に相談するとき。もしくは人の相談を聞くとき。
「分かる」という言葉を鵜呑みにしてはならないし、こちらも言うべきではないと、この数年で痛感している。

こう思う以前は何度この言葉に救われただろうか。
自分が相談者なら共感してもらえることが嬉しく、自分だけではないと孤独から解放された。
自分が聞く側なら「分かるよ」と言うことで寄り添いの姿勢を表し、それが相手を安心させる方法だと思っていた。

しかし、この1〜2年はどちらの立場であっても「分かる」を意識する度に違和感が増し、今では嫌悪感すら抱くようになってしまった。何て浅はかな言葉なのだろうと落ち込むこともある。

「分かる」わけがないのだ。

相手に自己投影して「分かったつもり」になることは出来ても、「分かる」ことなんて出来るわけがない。「分かる」と思う原因は、頭の中で自分の経験上で似たような出来事を探し出して、それと重ね合わせているだけなのである。
最悪なのは「分かる」の後に「自分もそういう経験があるんだけど…」と、自己投影から自分語りになるパターン。後から思えば「いや、お前のことなんて聞いてねーよ」というのが率直な感想なのだが、少なくとも私自身がこのパターンに落ちてしまう場合、その瞬間は自分の経験が相手の役に立つかもしれないという善意の塊のつもりだから自分語りをしている自覚はほぼない。
気付けば相談者の方が聞き手に回っていることなんて珍しいことではなく、結局何したかったんだっけ?というオチがつくことが多い。

思い返せば、簡単に「分かる」と言う人との縁が薄くなりつつあるなと最近ふと感じる。
「分かる」という言葉が魔法の言葉だと信じて疑っていなかったときは、「分かる」と言ってくれない人には寧ろ憤りを感じたこともある。どうして分かってくれないないのか、と。
しかし、「分かる」と言わなかった人たちの言葉はいつだって何より私のことを考えて言葉を紡いでくれていると今なら理解が出来る。「分かる」ことが出来ないと分かっているから、慎重に言葉を選んでくれているんだなと痛感する。本当に有り難い限りである。

何も「分かる」という言葉自体が悪い訳ではない。以前の私のように「分かる」と言われることで救われる人も沢山いるだろうし、救われるタイミングも沢山あると思う。たまたま視点が切り替わっただけで、私自身もまた「分かる」が必要になるときが来るかもしれない。相手の経験が救いの手を差し伸べてくれることもあるだろう。

何にせよ、見極めが大事である。
「分かる」を求めているのかいないのか。
それは言う側としてだけでなく、言われる側であるときもまた然り。自分は一体何を求めて話しているのか、何を求めているのかを理解しているのかしていないのか。
言葉は一度出してしまったら戻せないことを改めて肝に銘じたい。それが人に一生の傷を付けることもあることを重々承知して。


最近勢いでばかり人と話していて、しかもモヤることも多いのでモヤりの一部を考えてみました。少しスッキリ。

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