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庭で繋がる父と娘。

わたしの父は無口で仕事一筋。共働きなのに家事や子供の世話は母が全てをこなしていました。親子で会話をしたりすることは少なく、幼い頃のわたしにとっていつも恐い存在でした。

保育園に入りたての頃、お友達から聞くパパの話は遠くの遊園地に連れて行ってくれたや、お風呂上がりにいつもこちょこちょをしてくるなど楽しそでした。けれど、わたしは父とのそんなエピソードが少なく、せいぜいたま〜に山の上にある少し大きめの公園に連れて行ってくれる程度で、そのたまにが嬉しくもあったのですが、

わたしのお父さんはみんなと違うのかなぁ〜と子供ながらに思っていました。

平日は仕事で帰りが遅くなんだかピリピリしているし、休日の父はいつも庭にいて、草をむしったり、木を剪定したり、野菜の世話をしたり、ずっと庭にいました。立派な庭ではないのですが、もともと田舎のみかん畑の土地に家を建てたので、とにかく広さがあり手入れをしないとすぐに草が伸び林になってしまうので、そんな事情もあったのではと今は思います。

けれど、小学生・中学に上がるとみんなのお父さんと違う父を恥ずかしいと思うようになりました。

小学4年生の頃、通っている小学校の校舎の建て替えが始まりました。父はそこで現場管理の仕事をしていて、その様子を教室から見ることができました。
職人さんや研修にくる学生さんに指導する姿を見て、すごいなぁと思いつつ作業着姿の父を学校の友達の誰にも見てほしくないと思っていました。

わたしの知っている友達のお父さんは、作業着なんて着ていないし、休日は一緒に買い物に行ったり、冗談を言って笑い合ったりする。
けれどわたしの父はそうではありませんでした。

頑丈なフェンス越しに父と目が合うこともたまにありましたが、
あれがわたしの父だと気がつかないで欲しいと思い、いつも知らんぷりをしていました。今思うと、父はその時とても寂しそうな目をしていたなぁと、申し訳なく思います。

それから高校生に上がる頃まで、父とは口も聞かない目も合わせたくない反抗期が始まりました。

わたしは中学から柔道をしていて、高校は家から離れた強豪校に通うことに決め、中学卒業と同時に家を出ました。
けれど、厳しい練習や寮生活に馴染めず1年で挫折し、また両親の住む家に戻り、週末だけ授業を受ける通信制の学校に転入しました。

この時、電話で母とは話しをしていましたが、父とは全く話しておらず、初めて帰宅したときは父に叱られるのではとビクビクしていました。

けれど、父は「人と違う道はしんどいけど、頑張れ」と大きな声で一言だけ。

父は照れている時や怒っている時など感情的なときは声が大きくなります。
話は母から聞いていて、父なりに色々と考えてくれていた事が伝わり、
一言だけれどとても重たく、想いの詰まった言葉と感じました。

自宅に戻ってからはアルバイトをしながら高校に通う生活で、高校は簡単なレポートと週末だけの授業でいいし、アルバイトも扶養内で働いていたので、比較的時間がありました。けれど田舎の小さな街で出戻りの様なわたしは肩身が狭く感じていて、できればあまり人には会いたくありませんでした。なので特にやることもなく、一人の時にはよく庭に出て時間を潰していました。

当時外で飼っていたいた犬と散歩をしたり、何をするでもなく庭の隅に腰掛けたり。人生の大きな挫折(と思っていた)をした思春期のわたしは心に漠然とした不安やモヤモヤを抱えていましたが、この庭で過ごす時間は穏やかで落ち着きました。

高校を卒業して、改めて家を出てから十数年経ってもそれは同じで、
今でも帰省の楽しみは家の庭の散歩です。

あの頃は気がつきませんでしたが、父の庭には本当に沢山の種類の植物がのびのびと育っています。綺麗に手入れされた庭ではなく、植物がそれぞれ好きに枝葉を伸ばし、花を咲かせています。自然と増える脇芽もなかなか処分できなかったのか、同じ種類の紅葉の木が至る所に植えてありました。

どこからもらってきたかわからない鬼瓦や大きな貝殻、鳥の置物などがところどころに置いてあり、趣味がいいとはほど遠いけれどこれが父の庭だという独特のスタイルがありました。

父はこの庭は生涯完成しないと言い、定年退職してますます庭を楽しんでいました。

ところが昨年、突然末期の肺がんが見つかり闘病生活が始まりました。
初めの半年は病院で治療をしていましたが、完治が見込めないことが分かり最後の数ヶ月は在宅看護を利用して自宅で過ごすことになりました。

わたしも1ヶ月とちょっと仕事の休みをとり母と2人で自宅で介護生活。体格の良かった父は治療で骸骨の様に痩せ細り寝たきりの状態。痛み止めの薬のせいか、常にせん妄状態で昔の記憶の断片に迷い込んでいる様な訳の分からない事を話かけてきます。

昼夜関係なく世話が必要な状態で大変ではありましたが、もの心がついた時から両親は共働きだったので、こんなにも長期間父と母と過ごすことができたことが嬉しくもありました。

それに訳のわからないことを話す父になっていましたが、それでも言葉の中には父の面影があり、話に合わせて会話をするのも幸いにもわたしにとっては楽しい時間でした。

そんな父が永遠の旅に出てから半年以上が経ち、時々思い出すのです。
父の庭のことを。

父は無口で言葉やスキンシップでのコミュニケーションはほどんどありませんでした。けれど父が私のことを嫌いだ愛がないと感じたことは一度もありませんでした。むしろなぜだか父は絶対に裏切らない守ってくれるという確信を感じて育ちました。

わたしは幼い頃から父の庭で遊び、時間を過ごしてきました。
庭の手入れをする父が押す一輪車に乗り過ごした時間。遠くに父が剪定をするチョキッチョキッという音を聞く時間。作業する父を遠目に見ながら机に向かう時間。愛犬の横で父が噴かすタバコの煙が風にそよぐ時間や匂い。
わたしが父の庭を好きだったのは、そこに父の気配を感じるからだったのかもしれません。

今はSNSなどで言葉や画像を通して沢山の人と繋がることができ、言葉の表現やコミュニケーションが得意な人が優位になりがちで、それで人となりを判断してしまうのが当たり前の時代です。生身の人から感じる外に出さない心の声を感じることが少なくなっている様に感じます。言葉の表現が苦手な人は意図せず傷つけ傷つき、孤独を感じることもあるかもしれません。

話すのが苦手だって、子供の可愛がり方が分からなくたって、ただ側にいてくれるだけで伝わるそんな父の様な愛情表現がある様に、言葉だけではない目に見えないコミュニケーションがあることを父と父の庭がわたしに教えてくれました。

父の庭からどんな人かがわかる様に、表面的な言葉やコミュニケーション、デジタルだけではない、実際に目で見て触れて耳で聞いて感じる事でしか分からな事や、伝わることが必ずある事を忘れずにわたしは今の時代を歩み続けたいと思います。




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