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愛する人

5年くらい前から、定期的に作品を見てもらってる人がいる。作品というか、作品になる前のスケッチとか文章を見てもらってる。

作品が「ポーズをとった裸」だとしたら、作品になる前のものは「服をいそいそ脱いでる半裸」に近い。だから裸(作品)を見せるよりも実は恥ずかしい。自分で見てほしいとお願いしときながら、毎回ほんまに嫌やなと思う。

でも見てもらいたいんやから仕方がない。自分で自分の首に縄をつけて、その人に会いに行った。(余談やけど、こういう自己開示をしてるとコミニュケーションにおいてセックスの価値が相対的に下がる気がする。)

未だ作品にならないヌードシリーズ

結論から言うと講評はパッとせんかった。でもそのあと話が広がって(恥ずかしさのピークを超えた私があっけんからんと色々話せるようになって)今までで一番気楽に話せた。

話の中で、その人は自分のことを「おばちゃん化してる」と言った。確かに、距離感としては親戚の叔母に近い気がする。友人と呼ぶには年が離れてるし、でも気にかけてくれる感じが叔母に近い。家族的な愛情も感じた。

病んでた頃は、こういう時にもっと依存的になってた気がする。その依存っぽさは恋と似てて、人と親しくなるのがしんどかった。でも今感じる好意は、恋というよりは愛で、心がほこほこする。好きだと思えるのはリラックスしてるからやし、それでいてエネルギーも湧いてくる。

久しぶりやったが、会いにきて良かったと思った。

役割としてのメタファー

私はよく、親しい人を家族のポジションにあてはめる。たとえば同居人だったら、お母さん。同居人は男だけど母性がつよくて、暖かい。ごはんがおいしくて、料理で愛情を示してくれる。いつも包み込んでくれるから、お母さんみたいやなと思う。

また、学生時代から続いてる友人のことは、お父さんのように感じてた。同級生がお父さんっていうのも変な話やけど、友人は実の父以上に父性が強くて、そのことに私は救われてた。私が道を間違えそうになると、迷わず指摘してくる。その厳しい優しさに、何度も救われた。

他人を家族の役割に当てはめる。くらもちふさこさんの漫画でもそんなシーンがあったと思う。他人やけど叔母。男性やけどお母さん。同い年やけど父。そうやって一見正反対のラベルをつけてくのが、私は好きなんやと思う。

1986年の作品。今読んでもおもしろいよ。

でもラベルが近いもの、たとえば「妻をお母さん」と見るんは普通すぎておもんないと思う。「夫をお父さん」と見るのも、わからんでもないけどなんか危険な感じがする。権力差が出てしまいそうな。

まぁでもどんなラベルも、固定化してしまうと「その人自身」を見るのが難くなるから、よろしくない。あくまで「一般的なラベルで見ない」ための工夫として使うくらいが、ちょうどいいんかもしれない。

愛するは技術

私に限って言えば、好意というのは誰に対してもある。みんなのこと、それなりに好きや。それを愛【名詞】と読んでもいい。ただ、愛する【動詞】ということは、技術やと思う。技術がなければ、愛を他人に伝えるんは難しい。

今回作品を見てくれた人は、他人を愛するレベルが高い。自己開示する勇気や話術、心配の仕方や包容力、経験や知識、それら全部揃ってる。だから私も、気楽に投げ出せる。

そして、私にだけじゃないとも思う。その人はいろんな人に愛情を送ってる。話してると、いろんな人が愛情を受けとってるシーンが容易に想像できる。そういうんもいい。愛とは本来、境界なく世界に贈るもんやと思うから。

私は今は愛情を受けとるばかりやけど、それもすごいことやけど、いずれは愛せる人になりたい。

未公開のドローイング。

私が誰かを愛するとしたら、要となるのは表現力じゃないやろうか。みんなのことがそれなりに好きと言ったけど、それもほとんど伝わってないやろうし。愛がないというよりは、伝える力がない。もったいないし、私の実力不足や。

今回の講評のポイントも、その辺りにあった気がする。作品を通して愛することができる人になれたら、いいよねと。もしかしたらそれは絵という形ではないかもしれんけど、方法は何でも、とにかく伝わればいい。

がんばろう。

また描くよ。

生きる糧にします