父親の感想文について語るとき

#猫を棄てる感想文

 『猫を棄てる』の発売日に会社帰り近所の本屋に寄ると〈村上春樹最新作!〉みたいなPOPがあり『猫を棄てる』が平積みにされていたであろう空間があり、本そのものはなく、「売り切れかいな」とちょっと落胆しつつ、帰宅した。ちょっとの落胆で済んだのは、初出の雑誌を購入して本著と同様の内容は読んでいたから。当初は、再入荷したら書き起こされた後書きだけ立ち読みしちゃおうっていうぐらいのテンションだったことを申し訳なく思います。(失礼なことを書いて担当編集者さんが「こんな奴の書くものはわがサイトに掲載はできん!」と思わないでいただけるといいんだけど…)
 でも結果としてちゃんと買ったので許していただければ、と思う。一回読んだし、しかも「猫を棄てる」しか入ってなくて薄いし、とはいえハードカバーでそれなりのお値段…(たびたび文句みたいなことですみません)とかなんとかぐずぐず考えてなかなか買ってなかったんだけど、購入したのはこの「読書感想文キャンペーン」のおかげでした。

 というのも、発売日から数日後、突如「父の感想文」という件名で実家のipadから読書感想文キャンペーンに投稿した旨を伝えるメールが。その夜、電話もかかってきて「サイン本が当たるチャンスをみすみす逃すのか??」というほど下品な言い方ではもちろんなかったけど「俺は書いてみましたが?卒論で村上春樹を書いた君はどうするんですか?」的に煽られたような気がして、会社が忙しくて…とか言い訳をこいて書かなかったらなんか負けた気がするので、きちんと(薄かったけど)購入して締め切りギリギリに今、書いてみております。(でも実際買ってみるとイラストもすごく良くて、内容もたしかにこれ一つで一冊にしたほうがいいのかもなあって思う感じもして、すごく良かったですよ!)

 かなり長々と前置きを書いてしまった。でもサイトの注意事項を見ると「明らかな蛇足はこっちで消すんで!」的な記載があったので安心である。
目玉焼きについては、半熟の状態の黄身を好む人や、きちんと火が通った状態を好む人がいる。さらに、醤油をかける人や塩をかける人、ソース、マヨネーズなど味付けにおいても選択肢が広がっている。
こんな無意味な文章を書いたっていいのである。

 そんなわけで、父親の書いた感想文をひとまず読んでみたのだったが、なるほど父親らしい…とかなんとか思ったのだった。で、今「父親らしい」とか書いたけど、さてどこがどう父親らしいのか?と聞かれると、黙る。

 ぼくが『猫を棄てる』をよんで思ったのはまさに「僕は村上春樹のように、父親について一冊の本を書き上げるほどのエピソードがない」ということです。

 いや、もちろん育ててもらって、18歳までは同じ家で過ごさせてもらい、何かとお世話になっているので、量的な部分でいえばある程度のことは書けるだろう。でも父親が辿ってきた人生について、さらにその人生に決定的な影響を及ぼしたなにかについて、僕は知らない。何歳の時にどこで何をしていたか、みたいな客観的な事実だってどうやって集めればいいのかわからないし、ましてその時々の心情なんて、何をかいわんやである。(「何をかいわんや」って使ってみたかったんだけど、使い方合ってるんだろうか)
まあだから僕は「父親について一冊の本が書けるってすげえなあ」と思った。ある意味これが『猫を棄てる』を読んで思った僕の感想文のすべてである。

 いや、いや、もちろん『猫を棄てる』で重要な出来事として書かれる「戦争」について思いたいし、書きたい。
 個人レベルでの戦争の記憶(現場レベルの、歴史の教科書には記載されないような身体的な情報)を共有し、その記憶(情報)を自らの一部として受け継ぎ、もう二度と戦争を起こさないようにしていくべき、ということは『猫を棄てる』で語られていると思う。僕はまじにその通りだと思うし、その手のメッセージを発信してくれるものが創作であれ現実的な主張であれ大好きだ。でも不思議と今回はそっちの方向でテンションが上がらなかった。
それはなぜか。たぶん僕が本当にはそんな風にはできていないからかもしれない。「戦争の記憶を受け継ぎ、もう二度と過ちは繰り返しませぬから」と言ってみてはいるものの、本当にはそうしていないからかもしれない。


――一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。(p.96)


 『猫を棄てる』のひとつの主題といってもいいことが述されている。まあほんとその通りだと思う。歴史を受け継いでいくべきだ、と思う。また、余計なお世話だけど、他の読者のことも想像すると、「歴史を受け継いでいくべきだ」と思った人も多いのではないかと思う。でも、「歴史を受け継ぐぞ!」って思っただけではもちろん歴史は受け継げない。自分はお祖父ちゃんに戦争の話を聞こうとしたのか?父親から間接的にでも聞こうとしたのか?となるとまるで何にもしていない。
 だから「一滴の雨水」として責任を果たしていないんだ、ダメなんだってことでは、もちろんない。〈さあみなさん!お父さんやお祖父さん、お母さんお祖母さんに戦争についてインタビューしましょう。そしたら戦争がなくなりますよ〉ってことじゃない。でも、具体的に受け継ごうとしていないことは事実で、村上氏が父親と向かいあうことによって書き上げられた「具体的に受け継ぐ」事例のひとつとしての『猫を棄てる』に対して、安易に「僕も歴史を受け継いでいかなきゃと思いました!」とは何となく言えない気分になったから、あんまりテンション上がらなかったのかも。

 ……テンションが上がらないことについて書いたってしょうがない。そもそも村上氏だって(本当のところどうかはわからないけど)さあ戦争について書くぞって思って書いてるわけじゃないかもしれない。むしろ『猫を棄てる』を素直に読むと、村上父子の生に「たまたま戦争がかかわってしまった」というような感じだ。まあ、「たまたま」かかわってくるから戦争はだめだと改めて思うが。ともかく、村上氏も「この個人的な文章においていちばん語りたかった」ことして、次のように言っている。


この僕はひとりの平凡な人間の、ひとりの平凡な息子に過ぎないという事実だ。それはごく当たり前の事実だ。しかし腰を据えてその事実を掘り下げていけばいくほど、実はそれがひとつのたまたまの事実でしかなかったことがだんだん明確になってくる。(p.96)


いやはや、ほんとそうだよなあ、と思います。『猫を棄てる』を通して村上氏の生が奇跡的な偶然の産物であったことが語られるわけだけれど、それは「いや、ほんまは誰でもそうなんやで」ってことだよね。村上父子にとっては戦争がその偶然性に大きく影響をしていた。でもそれは「戦争」のない生は奇跡じゃないってことではない。

 『猫を棄てる』を読んで、村上父子のエピソードを通じて、追体験的に「戦争」について記憶を受け継ぐという価値はあるだろうけど、村上氏にとっての「雨水としての責務」にあたる歴史は「たまたま」父親と戦争を通してしか受け継げなかった何かであっただけだと、あえて言い切りたい。重要なのは「戦争」みたいな大文字で語られる「イベント」ではなくて、「その人にしか受け継げない」の《しか》の部分だ。その個別性にこそ何か価値のようなものが、もっとあるのではないだろうか。
 『猫を棄てる』を読み、村上氏が父から引き継いだ歴史を追体験的に受け継いで満足するのではなく、自分は自分なりに、自分にしか受け継げない個別的なものを求めることを止めてはいけないのではないだろうか、と思った。もっとはっきり照れずに言うと、ちゃんと自分が(=あなたが)産まれてきて、生きているっていうことは、すっごい奇跡で、僕は(=あなたは)かけがえのない存在なんだって堂々と言える根拠を自分にしか言えない切り口で言えるようになりたいと思った。でもそういう感覚はもしかしたら村上氏のように、自分の父親の生を見つめるという険しい道のりの先にしか見つけられないようなものなのかもしれない。あるいは、その過程で見ずにはいられない、何か、産まれて生きているという奇跡の裏面にある、暗い、嫌なものと対峙した先にあるものなのかもしれない。
 いずれにせよ確かなことは、そのような生の奇跡は、自分ひとりきりでは存在しえないということだ。そこには間違いなく他者の存在が不可欠で、何かを「受け継ぐ」というのはそのまま他者と対峙することであるはずだ。言うまでもないが、それは『猫を棄てる』のように「父親の人生をたどる」方法に限定されてはいない。親は父親だけじゃないし、お世話になったのは父親ひとりだけじゃないって意味で。でも『猫を棄てる』で村上氏が対峙したような、なんというか、腹をくくった対峙の仕方って父親に限らずなかなかできるものではないだろう。そういう点でやっぱり「父親(=他者)について、一冊の本を書けるってすげえ」というのが感想文としての結論だ。
 面と向かってはできないからこそ、父親の物質としての存在がなくなってからしかこのような本は書けなかったのかもしれない。まあそのへんは個人の、たぶんプライバシーの領域だからあまり言うまい。村上氏の父がこの世を去っているから残る謎があり、それは謎のままだ。

そんなこんなで時間がやばいのでまとめようと思う。

たとえ戦争がかかわっていなくても(いや、さかのぼればかかわっていない人なんていないんだけど)、ただ、ひとりひとり生きている人は、偶然が生み出したとんでもない奇跡の結果の存在である。でもそんな事実を自分自身の生を掘って、掘って、本当に個別的な感覚として得るのは意外と難しい。『猫を棄てる』で村上氏はその鉱脈を、頑張って掘り当てた。誰もがそんな風に頑張って、自分の生が奇跡的なものだっていう個別的な感覚を掘り当てる必要はないけど、でも村上氏だけがその頑張りをしなくちゃいけないってこともない。「責務」は小説家にだけあるものじゃない。だって、その「ひとりひとりが奇跡的なかけがえのない存在だ」ってことこそが、戦争をすべきじゃない理由の根本だから。僕たちはあらためて、もうちょっと頑張って、いかにこの生が奇跡的なものなのか、感じたほうがいいのではないか。足元を見つめるべきではないか。それにはたぶんあまり喜ばしくない記憶や歴史もついてくる。だけど、ここはひとつ、ちょっと頑張って恐ろしい木の上から降りて、帰るべき場所に帰るべきではないのか。もしもそんな場所がまだ地上のどこかに残されていれば…

 一人の人間の中には、底知れぬ奇跡と謎が渦巻き、沈殿している。いくつかの謎は謎のまま、容器は消滅していく。僕たちがいくらわかったつもりになっても、その奇跡や謎は、どこまでも奇跡や謎のままだ。一人の人間が抱えているものは、僕たちが理解できる範疇を超えて、深く深く、深く大きいのだ。


 って感じで無理やりまとめようとしたけど、やっぱり僕は、言いたいことがなんなのかはっきりわからない文章になってしまう。かつて『1Q84』の読書感想文を書いた中学生だったか高校生だったかの僕は、父に「どういう『論調』で書いたのか」と問われて答えに窮したものだった。でも僕はやはりこんな風な何を言っているのかよくわからないまま提出するのが好きなのだ。だって自分にだって、本当はどう思っているのかなんて実はわかっていないから。まあ、父親にはそこをどうにか、職業的な能力を以て、なんとか読んでもらえればと思う。

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