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年齢と時間の概念

私はそれについて尋ねられないとき、時間が何かを知っている。尋ねられるとき、知らない。
アウグスティヌス『告白』第11巻第14節

 生まれてから数十年間、郷里で暮らしている。
 二十歳を過ぎて就職した際、数年間海を渡った先で一人暮らししたものの、二十代半ばで体を壊したのを機に故郷へとんぼ返りした。以来、遠距離通勤しながら生まれ育った家で暮らしている。戻った時はまだ青年だったが、今や立派な中高年になってしまった。特に大きな動きがなければ、このまま郷里で年老いていくものと思われる。

 子供の頃、若い頃は、死に対して恐怖感を強く抱いていた。自分が死んだらどうなるのか、そのまま何もかも消えてしまうのか、それとも全く別の場所に行くのか。夜、寝床に入ってから考え出すと思考が止まらなくなり、眠れないままに一夜を明かしてしまったこともある。身近な人が老いや病で亡くなり、その葬儀や通夜に参列すると、悲しいと同時にもう二度とその人には会えないのだと寂しい気持ちに押しつぶされそうになった。

 年齢を重ねた今、死というものをそれほど恐ろしいものだとは思わなくなった。人生の折り返し地点を過ぎ、若さはいよいよ遠いものとなり、むしろ死の方が身近になってきていることもある。あるいは哲学の本を少々かじったため、エピクロスの「我々にとって死は何ものでもない」という言葉が胸のどこかに引っかかっているのかも知れない。
 また、故人に対する思いも変わってきた。これまでは「もう二度と会えない」と寂しさ、悲しさばかりが先立ったが、最近ではその人がこれまで存在していたこと、自分と同じ時代に生きていたことを思い返すだけで満たされるようになった。また、自分は死後の世界を信じているわけではないが「いつかどこかで会える」という気持ちも心の中に存在している。その状態になった時、おそらく自分はこの世の人ではないだろうが、それでも「再会できる」という思いはそれだけで心の慰めとなっている。

 同じような気持ちは、人間だけでなく地元の風景にも抱く。
 子供の頃から慣れ親しんだ街でも、当然ながら年月とともに消え去った建物や景色が存在する。小学生の頃に毎日通った本屋も駄菓子屋も、賑わっていた駅前のデパートも、今はない。
 若い頃は寂れていく故郷に侘しさを感じていたが、今は「確かにそれが、そこにあった」という気持ちだけで満たされている。さすがに「いつかまた会える」とは思わないが、その場所の思い出だけで十分に満足できるようになった。

 年齢を重ねるにつれ、人も物も「存在している」と「存在していた」の境界線が曖昧になってきた。時間の流れは決して遡ることのできない非可逆的なものだが、それでも「そこにいた、あった」という事実はどれだけ時間が経過しても残り、変わることはない。
 現代人は時間を直線的で非可逆的なものと理解しているが、古の人々は時間を円環的な構造と見なし、無限に反復する概念として捉えていたという。全てのものは四季の移ろいと同様に、誕生と成長、死と再生を繰り返す。人間は死ぬ存在であるが、死は消滅ではなく移行であり、生者とはやや異なった世界ではあるものの交流可能な次元へと移行し存在し続けるものとされた。

 過去の時間という概念を考えると、加齢とともに自分の思考も古の人々に近づいてきたのかと思う。全ては移ろい変わるものだが、物事は消滅することはなく、何かしら形を変えても現在という時間に並行して存在し続ける。そう考えるのは、今や触れることのできなくなった様々なものや人々に対する慰めでもあり、また自分の将来に感じる漠然たる不安を解消してくれる手立てでもある。

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