「障害児」という言葉

「障害児」、「障害者」という言葉は、インパクトのある言葉だ。「害」という字が入っているし。でも私はいつも便宜上この言葉を使う。手っ取り早く伝えるために。私が伝える主な媒体がTwitterで、文字制限があるのと、皆何を指す言葉なのかを明確に知っているから。一人一人が抱くイメージは、異なっているかも知れないけれど。

 最近は、「障がい」とか「障碍」とか、違う文字を当てたりもするらしい。それで自分の気持ちが前向きになる人は、そうするのがいいと思う。私にはあんまり違いがわからない。耳で聞いたら同じだし。それに、言葉を変えたからって、問題は解決しない。「気にするとこ、そこじゃなくない?」とも思う。

 昔職場で聞いた特別支援教育の講演会で、講師の先生が「障害は、障害者本人の中にあるのではありません。環境が作るものなんです。」とおっしゃった。それを初めて聞いた時、私は目から鱗が落ちる思いだった。不自由に生まれたその人自身が、「障害」なのではない。その人がいわゆる「普通の」生活を送ろうとする時に、それを阻む環境因子のことを、障害と呼ぶのだ。障害者というのは、日常生活を送る上で、健常者よりも「たくさんの障害に突き当たる人」のことだ。

 目が悪い人が眼鏡をかけるように、耳が遠い人が補聴器を付けるように、できる支援をすれば良い。世の中に眼鏡や補聴器がなかったら、この世界には一体どれくらい障害者が増えることだろう。一人一人のニーズは多岐にわたっており、その度合いも様々だから、全てを一度に満たすことは難しい。けれどそれを目指していくことが、人間の進化なのではないかな、大げさかも知れないけれど。眼鏡と補聴器を必要ないと言う人は、まさかいないでしょう?(そして私はもう少ししたら、老眼鏡が必要になります。もうその気配がしてる。ひたひたと。)

 Twitterで娘のことを「障害児」と書いた時、ある方から「障害児と呼ばないであげて欲しい。可愛い我が子なのだから。」という趣旨のリプライをいただいた。その方のお子さんも、障害のある方だったと記憶している。けれど私は、我が子を差別的に扱う為にこの言葉を使ったのではない。そうではなくて、娘があるがままに生きようとした時に、あらゆるところにバリアがあり、それは一生自分の脚で登れない階段であり、フルタイムでは預かってもらえない保育園であり、近場ではあまり売られていない前開きの服であったりしたわけだけど、それらの全てが「娘にとっての」障害なのだ。娘の親である私は、娘をもったことで初めて、これらの障害に直面しているんだ、ということを発信したいと思った。(そして、うちの娘はとても可愛い。亡くなった今でさえ。位牌も、骨壷も、全部。障害児であることと、可愛いこととは、完全に両立する。)

 「障害児」や「障害者」という言葉に抵抗感がある人は、たくさんいるだろうと思う。「ガイジ」という明らかな差別用語も、ここから派生しているし。娘に障害があると知った時、私もたくさん、たくさん泣いた。でも少し冷静に考えてみる。これらの言葉にマイナスの意味を乗せているのは、いったい誰なのか。障害をもつ人たちが、何か悪意をもって人に「害を与えて」いるのか。そもそも不自由をもっていることは、誰かのせいなのか。それらは本人の努力によって、どうにかできることなのか。医療の発達によって生きられるようになった人たちが、生きることは悪なのか。もしそうだとしたら、私やあなたの家族や親しい人たちがお世話になっている医療は、発達すべきものではないのか。

 人間だけにとどまらず、全てのものは進化し続けている。太古の海に細胞が生まれ、単細胞生物が分裂し、長い時を経て生物は陸に上がり、いまや空を飛び、宇宙へ飛び出している。そういう進化の過程の只中に、私たちもいる。こういう多様な私たちが存在できることが、進化なのであって、色んな種類の大変さを持って生きている、ひとつひとつの命が守れてこそ、世界は真に平和であると言えるのではないかな。

 多様性の尊重が叫ばれるようになって久しい。インクルーシブにバリアフリー、ユニバーサルデザインと、たくさんのそれらしき横文字の言葉も、ここ20年くらいだろうか、よく耳にするようになった。では私たちの日常は、心の垣根は、どう変化しているだろうか。

 インクルーシブという言葉は、「全てを含んだ」という意味の形容詞だ。それはもちろんポジティブな意味で使われているんだけど、わざわざ横文字の用語を使わなくてはならないということは、言い換えればそれ以前の世の中は、黙っていたらエクスクルーシブ(排他的)なものであった、ということだ。バリアフリーにしても、わざわざ言わなくてはならないほど、従来のデザインが「健常者仕様」であり、そこに当てはまらない人たちに、「バリア」を強いるものであった、ということに他ならない。

 障害のある人たちは存在する。それは普通のことだ。身近なところに、たくさんいる。家の中や病院や、健常者とは違う学校や施設にいて、たとえ外から見えにくかったとしても。「その人たちだけの居場所を作る」のではなくて、「その人たち用にあとから付け足す」のでもなくて、初めから、当たり前に、そこに存在するという前提で、そして自分もいつかそうなるのだということを踏まえて、社会が形成されたら良いな、と思う。身体の不自由な私の娘も、普通のおばさんである私のところに生まれてきた。それくらい、どこの誰のところにやってきてもおかしくない、当たり前のことなのだから。

 そしていつか「障害児」とか「障害者」という言葉が必要なくなるくらいに、世の中の仕組みや作りが、ユニバーサル(例外なくあてはまる)になるといい。どのような障害をもって生まれても、途中で障害を負っても、老いて身体が不自由になっても、生まれてきておめでとう、生きていてありがとう、ようこそ、大丈夫だよ、と誰もが思える世界を、求め続ける人でありたいと思う。

 コロナ禍で病床が逼迫しているニュースが溢れ、戦争の気配がいつまでも消えないこの世界で、切に、切に、平和を願っている。弱きもの、小さきものが幸せに存在し得る、本当の意味での平和を希求する。たとえそれが、「きれいごと」であろうとも。きれいごとを、今こそ。今も、これからも、ぶれずに心に持ち続けたいと思う。





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