NIPTをすり抜けて
母になるにはギリギリの年齢で結婚し、夫はさらに年上だったため、結婚後1年経っても妊娠の兆しが見られなかった私たちは、不妊治療を受けることに決めた。治療開始から約一年半、100回ほど通院してもなかなか子どもを授からず、もしこれでダメなら諦めて、ハワイ旅行に行くか外車を買おうか、と考え始めた矢先、最後に子宮に戻した2つの凍結受精卵のうち、1つが着床した。
私の通っていたクリニックでは、できた受精卵はグレードの高い方から順に移植する。その方が着床の確率が上がるからだそうだ。私の子宮に着床したのはいちばん最後の方の卵で、妊娠がわかった時クリニックの先生は一瞬「しまった」という顔をした、ように私は感じた。たぶん私の直感は正しい。
不妊治療を始める前は、私が結婚前から通っていた自然派の婦人科へ行き、夫も一緒にタイミングなどのアドバイスを受けたりしていた。そこの先生は「不妊治療という手もあるけど、不妊治療で生まれた子どもは発達障害とか、奇形が多かったり…」と話してくれた。しかし夫は「(高齢だからゆっくり妊活に取り組む)時間がないんで」と言ってろくに話も聞かず、私たちは半ば強引に、不妊治療のクリニックに通うことにしたのだった。
胎児の心拍が確認されると、不妊治療は卒業で、そこからは産科で通常の妊婦検診を受けることになる。そのための病院は自分で予約して、クリニックの紹介状を持って行くのだった。クリニックの先生は、NICUがある大きい病院の方が…とやんわり大学病院をおすすめしてきたが、私は建物のきれいさや食事の美味しそうさに心が揺れて、個人病院ではないが大学病院ほどは大きくない、職場と家から通いやすい立地の病院を選んだ。
産科で色々な書類を書くのだが、その中のアンケートに「胎児に何か異常が見られた場合、それを知りたいかどうか」を選ぶ箇所があった。「全く知りたくない」「ある程度知りたい」「全てはっきり知りたい」のような選択肢があったと思う(うろ覚え)。私たち夫婦は共働きで高齢であるため、障害をもつ子どもを育てることは想定できなかった。「全てはっきり教えてほしい」、のところに◯をつけた。
何回目かの健診で医師から、「胎児の首の後ろに浮腫があります。ダウン症や心臓の病気の可能性があるので、希望すれば出生前診断を受けることができますが。」と言われた。出生前診断には2種類あって、羊水検査と、最近できたNIPTという血液検査。羊水検査の方がより詳しい結果が出るが、子宮に直接針を刺して羊水を採取するため、流産につながる可能性がある。NIPTでわかるのは13、18、21番染色体のトリソミー(通常2本あるべきものが3本ある)で、21番染色体のトリソミーが、いわゆるダウン症のことだ。
出生前診断で事前にわかる障害は、全障害のうちのおよそ25パーセント。そもそも生まれてみないとわからない障害が大半なのだと知り、少し恐ろしくなった。しかし高齢出産の私たちが一番警戒していたのはダウン症で、それ以外の染色体異常で無事に産まれて来られるものは(染色体異常があると、胎児のうちに死んでしまうことが多いため)、生きるのにそれほど大変なことはなさそうだ、と私たちは都合よく解釈した。
胎児の異常を、大げさにならぬように私の母に知らせた。母はすぐさま、「羊水検査を受けてほしい。できれば下ろしてほしい。」と強く主張した。私の弟が幼い頃、付き添い入院した病院で、たくさんの障害児とそのお母さん達を見たことのある母。また長年、弟と同じ年のダウン症の子を育てる、親しい友人の姿を見てきた彼女は、何としてでも障害のある孫を避けたかったのだと思う。娘の私に余計な苦労はさせたくない、という母の気持ちも理解はしたが、私たちは決定的な理由がない限り、せっかく宿った子どもを手放すことはできなかった。
結局NIPTを受けることにし、2週間ほどで出た結果は「陰性」だった。つまり、子どもが上記のトリソミー系の障害をもって生まれる確率は、とても低いということ。「良かった。」私たちは安堵した。この子は、ダウン症とかではないらしい。もしもここで陽性の結果が出たら、私たちはこの子を諦めようと思っていた。どう考えても障害のある子どもを育てることはできない。仕事が、年齢が、生活が、あまりにも大変すぎるので。
胎児はその後、特に異常を指摘されることなく、すくすくと育った。骨盤位、いわゆる逆子で、それがずっと直らなかったほかは、心拍も、身体の大きさも、何も問題がなかった。胎動もそれなりにあった。もし私が経産婦だったら、胎児の動きが少ないと感じることができたのかもしれないが、これが初めての妊娠だった私には、そんなことは分かりようもなかった。
通っていたのが大きめの病院だったため、健診の度に先生が変わり、途中の誰かがカルテに「骨盤位」と書き忘れたことがあったらしかった。逆子は一度も直ったことがなかったのに、予定日が近づくにつれ、「まあ、前にも一度直ったみたいだから、また生まれる直前に直ることもあるし」と言われ続けた。「あのそれ、書き忘れじゃないでしょうか…」と何度か反論を試みたものの、忙しい先生は一妊婦の呟きに耳を傾けてはくれなかった。助産師さんに教わった「逆子体操」なるものを何度か試してもみたが、私の具合が悪くなるばかりで、胎児は一向に身体の向きを変えようとはしなかった。
今にして思えば、伏線はたくさんあったんだ。そうなるべくして私は、障害児の母になったのかもしれない。
娘は結局骨盤位のままだったため、予定帝王切開で生まれてきた。普通分娩なら、あの不自由な身体では、無事にこの世に出て来ることはできなかっただろう。生まれてみたらこんなに色んな所見のある娘も、子宮の中にいる間は、何も不自由がなかった。あちこち脱臼し拘縮した関節も、健診の度のエコーで見つかることもなく、普通の子どものふりをして、十月十日を生き延びたのだ。
変わった形の小さな足を触りながら思わず、「かわいいあんよに、小ちゃい指をちゃんと10本付けてきたの?えらかったねえ!」と感心してしまう。この小さい人はこんなにたくさんの困難を抱えているのに、全てを巧みにすり抜けて、私を母にした。
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