日本のバブル期、狂気の美術予備校の話

私が通った美術予備校(河合塾美術研究所)は、一言で言えば灼熱であった。バブル期。これは私の身体感覚も含めた主観だが、今もそう遠い記憶でもない。私は身体に記憶する。それは今ここにあるものだ。

日本がお金があった時期。河合塾美術研究所(名古屋・千種校)はその時専用空間としてのギャラリーも併設しており、西部資本に後押しされ流行していたヨーゼフ・ボイスや(確か「心」という字形にテレビモニターを配列した)ナム・ジュン・パイクの展覧会等を開催していた。

その隣のスペースには西武の美術書(洋書)専門店、アール・ヴィヴァンも出店していた。美術予備校生にとっては贅沢そのものだ。10代終わりの私にとっても、その派手さは驚きであった。講演会も比較的頻繁に開催されており、私が聞いた記憶があるのは、イラストレーターの河村要助や彫刻家の戸谷茂夫氏(私は後に知己)、同じく彫刻家・飯田善國氏のもの。[そういえば、工藤哲巳氏の展示もあった。本人が来日し、(あやとりの)パフォーマンス付きで。]

私が在籍した油絵科は、講師陣が新宿美術学院やすいど一ばた美術学院から引き抜きをされて来ていた。その一人、新宿美術学院からの保科豊巳氏の申し出で私は授業料免除の特待生扱いを受けたのだが、私が次第に塾に遅れて行く習慣になっていたので、氏は内心困惑していたようだ。他の講師が私に怒りを爆発させたことがある。講師室で、私が美術の制度批判のような事を開陳した時に、「そんなことは芸大に受かってから言え!」と。これは本気の爆発。「発火」。(特待生なのに)なぜ出て来ないんだ?という問いに、「本を読んでいる」と答えると、「じゃあ金返せ!」と。おそらくこれが発端になったのだと思うが、河合塾美術研究所・油絵科は私から見るにこの後「狂気」に陥って行った。受験間際の2、3ヶ月間が苛烈で、私が塾に赴くとトイレや塾生が絵を描くアトリエに向かう階段に多数張り紙がしてあるのだ。太マジックでA4かB4ぐらいの紙に「この世界に寝る子は育たない!」とか、「トイレで休憩している時間があったらすぐにアトリエに戻って描け!」とか(笑)、今考えても信じられないような文言が、常設されていた。これを「スパルタ」というのか(?)。結局その年は、この河合塾美術研究所千種校から、東京芸大絵画科油画専攻の当時定員55名の内、私を含めて12人が合格することになり、当時倍率は45倍。前年は1人だったと思う。おそらくこの時が、美術予備校としての戦後のある意味の「ピーク」だったのだろう。私はその名実ともに渦中にいたのだ。私は最後まで、これは危ない人たちだというおそらく動物的直感により、この人の流れ=渦に距離を置いていた。受験当日などは、彼らは不忍池のほとりの法華クラブというホテルに講師・塾生共々泊まり込み合宿形式で、その日の対策を練るのだが、私の方は単独行動で、上野動物園裏の薄暗がり、水月ホテルに宿泊した。これが私の出発点ですね。今もあの動物園裏の低地、曲がりくねった道には愛着がある。

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